…………というお話があった。
 
 いやいや。
 おれはセレスタに話したんだ。
 
「あてもなく歩いて気付いたら川辺の橋の下にいた。橋の支えのところ、橋脚? のところに座り込んでた。今日みたいに嫌な雨が降っていて、ここにいちゃ危ないとは思ったんだけど、疲れ切っていて動く気にならなかった。まあね、自暴自棄だった。気持ちのせいっていうよりも空腹と睡眠不足と疲労。稼いだ金はビタ一文も使えないし、誰もおれのことを知らないし、見えなかった。誰にも見えないということは世界が冷えていく経験なんだ。
 朦朧としながら諦めてへたり込んでたところに、杖をついた男がやって来た。歳を取っているが背筋はきれいで、白杖ではなかったけど、白杖と同じ使い方をしていた。大雨の真っ暗な夕方にスモークのサングラスをかけていた。
 で、おれに向かって『危ないぞ』と言った。おれもそう思ったし、目の見えないジジイが嵐の日にお散歩してるのも危ないだろ、だからそっくり返した。『危ねえな』って。で、あれ? 見えんの? って興味が湧いて。盲目ゆえの第六感みたいなものがあるんじゃないかと思ったんだ。
 危ないから泊まってけってオッサンは言ったんだが、河原の砂利道だったから、石の塊もぬかるみもあって、オッサンが杖ついて歩くのには危ないんだ。オッサンもちょっとヨタヨタしてるから、危ねえなって、降りていって肩を貸して、そいつん家まで送ってやった。橋からすぐだった。川沿いだったから。おれはね、めちゃくちゃ寒くて、胃の中も体重も脳みそも身体から足りないような感じがして心細くって、靴もコートもドロドロで、誰かんちに上がれたのに、有り難く思うよりも油断したら死にそうなぐらい疲れていて、ろくになにもできずに毛布にずっとくるまってた。
 一夜明けて、きれいに晴れて、やっと安心して寝られたんだ。それで回復して家を出た。
 なんであいつん家にいなくてここにいるかって? オッサン相手より若い女のコの方がいいだろ」
 
 地震が来た時だけは口をつぐんだ。大きな揺れで、地鳴りが聞こえたような気がした。
 彼女には諦めてるようなところがあった。何か揺れているものがないかと部屋のなかを見つめているだけだった。
 いつもの災害だ。いつもどおりの不条理だ。
 
 なぜ警報の音を切るかというと、サイレンの音が怖いから。警報よりもこれから起こる現実の方がずっと怖いのに。
 あるいは、無駄だから。備えはないし、本当にそのときが来れば誰も備えようがないから。
 警報を切ったところで現実が目の前からいなくなる訳ないけれど。
 
 だんまりを決める青い目に遊びを持ちかけた。
 
「こっち、ねえ、おれのほう見て。出来る限りまっすぐ見る。そう。そこで止めて。ちょっと瞬きも我慢」
 
 10秒キープ。色素を貼り合わせた薄青い目がぱっちり見開いている。角膜に色素が触れる安物のレンズは、目玉に紙やすりを当ててるようなものだから、少女は外向きに眼(め)を輝かせるたびに自らの臓器を磨耗させている。
 
『なにしたの?』
「なんにもしてないよ。今のは。そういう遊びがあったんだ」
 
 忘れかけていたプリンをようやくテーブルの上に置いた。忘れかけていたんじゃない、冷やしていた。さっきフライパンで蒸した奴だ。プリンはフライパンでも蒸せる。
 少女はオーバーリアクションに甘くてなめらかなプリンを口に含む。甘いものを愛でていれば道を間違えても大丈夫だと思っている。道を間違えたところで教えてくれる親切な人はそういないけれど、過ちに目を瞑れる。瞼の内側で青い色素が君の生まれついて持った眼(まなこ)を曇らせたとしても、きみは不都合に目を瞑る。
 
『ザムザさんは、じゃあ、まえは、ついていけなくなったの?』
「たとえ話だったけどね。今でもあんまりその辺は言えない。いきなり言うとびっくりするかもしれないだろ」
『たとえ話でもほんとうのことです』
「そういうことだ。本当にもの分かりが良い、良すぎるよ、逆に大丈夫?」
 
 おれはコーヒーミルが欲しいが、家主は飲食に恐ろしく無頓着でせいぜいドリップのインスタントコーヒーしか常備がない。彼女がこれからこの世界で強かにひとりで生きていく手助けをするには紅茶とコーヒーが絶対に必要だ。あとプリン。教育を、自分の歩まなかった道へ未来ある子供を誘導する年長者の自己満足にしてはならないが、それでも彼女には同じ轍を踏まないでほしい。
 
 すべての事象は限定的だ。あらゆる意味はそれを受け取るだれかひとりの分しか用意されていない。どんな親友とも、愛する人とも、それぞれの持参した意味は同じ意味ではない。それは分け与えることができない。
 
『でもわたし見たかった』
「そう。その態度だ、半信半疑。素晴らしい。プリンもう一個いる? もう無いんだけどさ」
『なんでそんなほめるんですか』
「君のことは評価してるんだ。でなきゃ話さない」
『どういうところがすき?』
「そうやって聞くところ」聞いた上で聞いたことを悔いるところ。
 
 おれはこの年頃の少女と接したことがあっただろうか。
 “おれは”この年頃だったことがあっただろうか。
 
 “おれが”誰であるか考えるとき、それが分かったところで(おれの秘密が暴かれようとも)おれは動じない。おれもおれ自身の読者なのだろう。あなたにとってのおれの存在よりも、おれはおれに対して親密だが、おれはおれのもつ情報に動揺しえないので、何というかおれはおれに対して“おれ”の作者であるかのような接し方をしているのではないか。客観的に言っておれはおれの作者にはなりえないのに。
 あなたはおれについて考えようとするだろうけど、掲載順に読み進めてきたのなら、本日までに書き表されてきたことはおれの読解のためには足りていない。迂遠してきた旅人がいれば、おめでとう、おつかれさま、ありがとう。
 あなたは好奇心を巡らせればいい。ここでは許されている。あなたが詮索の犠牲にならないよう、情報への劣情の犠牲として我々は存在していたのだから。
 我々のこと、可哀想であったこと、彼が可哀想な結末に終わったこと。君は漂流し、僕は待っていた。ページを超えた物語で、終わってしまった物語で、最後のページのその次に時を進めたぼくはどこにも在籍できないから、ページも存在しない中空において、まるで倒壊したビルの屋上にいまだ佇んでいるように、立つでも寝るでも座るでもない状態で、漂うように音も立てずに留まりつづけてそこにいる。何も語らずに居続ける。きみの消えた先を夢想している。
 おのれのなかの観察者をきみが自罰的なまでに恐れていたのか、期待を寄せ過ぎたのか、その両方だったのではないか。青い眼は見るためではなく見られるために開かれていた。あるいはおれが深刻すぎるんだね。薄青色は君によく似合っている。君は女の子としてステレオタイプのピンクを選ばなかった。
 
「どうしてセレスタにしたんだ?」
『空っていみです。あと楽器のなまえです。鉄琴みたいなおとの鍵盤楽器です』
 
 ベルのような音色の楽器だ。きっとそういう笑い方をする。
 
『ちいさくてやさしい音をします』
「弾ける?」
『わかんない』歯の隙間から苦笑が漏れた。
 やがて目を伏せ、視線をそっと机上にすべらせた。よく見ればまつ毛の色も少し薄く、瞼に少しの赤色を乗せている。
 
『ちいさいころ』顔を伏せてしまいがちなので、読み取りにくい。
『ほんのちょっとピアノをならってました。バッハのメヌエットならたぶん弾けます。やってることいっしょなので、ピアノと、たぶん、ひければだいじょうぶ』

「やめちゃったんだ? ピアノは」
 
 彼女はひらひらと空手を泳がせ、苦笑した。『じゅくがだいじだったの』
 
「上手くなれたかもしれない」
 
『わかんない』
『ダンスもすぐやめちゃった』
『すぐやめちゃうから』
 
「塾はすぐやめた?」時効の冗談だ。
 
『試験がおわったらやめました』
『でもー、うかんなかったです』
『すごく制服がかわいかったです。ちゃんとしたブランドと組んでデザインしてて。校則はきびしそーだけど、がっこーもせーふくもかわいいからいきたかったです』
 
「ピアノやダンスは続けたかった?」
 
『つづけてたら、たぶんちがうわたしになってます』
『ちがっていくわたしのことをときどき想像するのはたのしいです』
『たのしいっていうか』
『かなしくって』
『すがすがしいのかなあ』
 
「そうだね。ここにいるのはいつもああしなかった方の自分だ」
 
『いまできていないことができている別の未来があるって知ってると、今できていないのに、自信になります』
『あー』
『んー』
『自己弁護っぽい』

 この余生はサービス残業のボランティアだった。

『でもその、今だってたぶんできないことのひとつを、やろうとしてやってるんです。わたしのできるかのうせいの一端が“わたし”なわけで、だからなるべく、とっぴょーしもないことをしよーとしています。たぶん、ほかのわたしにわたしのことそーぞーしててほしーです』
『でも今かんがえました』
『ザムザさんは整形したことあります?』
 
「“これ”だよ。だろ? 見え方が変わった。劇的だ。しかもカッコいい」
 
『なんでザムザっていうんですか』
 
「あまたある物語の中で最も成功した作品のひとつだと思ったから。有名だろ? あらすじも分かりやすいし程々に短い。ゲン担ぎだよ、縁起」
「って、今考えたんだけどさ」

 雨が戸を叩き、閉め忘れたカーテン、冷たい窓ガラス、暖色の光が外の夜へとひらけて、雨宿りにさまよう蛾たちを呼び寄せた。

inserted by FC2 system