「うわっ」前触れもなく本降りになった空に八月一日夏生が叫んだ。「なんなんだよ」ここまでの色々な障害物競走を経て彼には独り言の癖がついている。気付いていない。

 旧式の携帯端末にはそろそろガタが来ているようだった。あるいは大雨で電波が乱れているのかもしれない。今更になって、今朝8時のタイムスタンプの、celestaからのメールが鳴った。今日は乱れているんだと八月一日は思った。時の流れに翻弄される日。こういうのはときたまある。

 サクラの木陰とビルの庇を伝い、濡れ鼠になりながら居酒屋へ駆け込んだ。階段を下りながら、洪水になったら駄目になりそうな店舗だと思った。

「雨、ひどいですよ」
「23区側しか本降りにならないって言ってたのにな」
「震源も分かりました。『東京23区』って」
「珍しいな」

 僕が外に出ている間に、食べ残しの皿はきれいに片付いていた。なんと会計まで支払い済みだった。

「おごりって言っただろ?」

 しれっと語る高田氏の余裕はとてもスマートに見えたが、貸しを作ってしまったことへの一縷の懸念を拭いきれなかった。
 陳謝して外に出た。雨のなかを濡れながら駅舎に駆け込んだ。店にいたほんの少しの間に雨足は多少和らいでいた。
 このまま愛想良く笑って別れてしまえば丸く収まっただろうに、つい口が滑って、というよりも故意に、喉のつっかえを取っ払ってしまった。

「公園の件ってどうなったんですか」

 このまま別れていれば丸く収まったのに、とは、高田氏も思っていたに違いない。混ぜっ返された事件に彼は少し逡巡したように見えた。

「今のところ何もない。ただ、あの神社に賽銭泥棒があった。窃盗ということでパトロールに回った。一応町内会持ちの施設だからね、微々たる額だが町内会から要請があったから仕方ない」
「ネットじゃ意見も噂もなんにも聞かなくなりましたけどね」
「現場はいつまでも現場ってことさ。事件性があるんだからまだ終わらないよ。で、たぶんこの終わらなさってのは見ているだけの連中には簡単に伝わらない。伝えようとするのもちょっと難しい」

 大したことないはずの出来事も、実感がある限り忘れられない。僕は、この現象の先にいる彼女を探しているからまだ降りない。

「高田さんは見つけたらどうするんですか」

 彼は微笑気味の無表情で言った。でも回答は心なしか今までの問答より親切に聞こえた。

「秘密にするだろうね」

 上手い返事が思い浮かばなくて黙ってしまうと、高田氏は「さ、今日はお開きだ。高校生なら帰る時間だろ」と先んじて終止符を打って立ち去った。

 さっきのセレスタからの受信は、開いたはいいがろくに読んでいなかった。取り残されて改めて端末を開くと、ちょうど通話の着信があった。
 連絡先に登録された名前。応じた。

「荻原?」

 沈黙があった。僕は待った。
 長い無言を経て聞こえた。

「きて」

 駅前のレンガ敷きの通りは雨に濡れて滑りやすい。雨の降るなか、街灯がレンガ道の上の水膜に天地逆さに反射している。

 居場所は予想できた。西S行きのバス停を探して、滑りやすい道をバスターミナルへ小走りした。乗る路線は本数が少ないのだ。グリップの効かないスニーカーで、転倒しない可能な限り急いだ。

「電話じゃダメかな」

「できれば会いたい」

 バスは来ていた。発車しそうだ。

「今どこ?」

 返事を待たずギリギリで駆け込んだ。電話を繋げたままだったから、何人かの乗客にモラル違反を煙たい目で見つめられた。事情なんて、知らないくせに……。いつも、ときどき、どこからか現れる、冷たい怒りに捕らわれそうになる。

「ミナトさんとこ」

 バスが発車した。空いた車両の後ろに移動した。

「いま、乗ったから、バス、2、30分ぐらいで着く」

 答えがない。

「あのさ、電話繋いでようか?」

 一拍置いて、少しの気配がして、向こうから通話が切れた。

 

 バスは帰路の逆方向へ走る。

 ポケットからこんがらがったイヤホンを取り出して耳に突っ込んで、いつものバンドのいつもの曲を、正しい轟音を再生した。
 エンジン音も車内音声もイヤホンで塞いだ耳を通過して聞こえる。遮音が目的ではないから、環境音は構わない。音楽が流れている間、僕は流れる時間を音楽に預けて座席に沈む。4曲か5曲を聴いているうちに、いつもの場所に到着するだろう。

 夜の暗さがバスの車窓を見覚えのない風景に変容させた。窓ガラスを打つ雨粒が夜の明かりをぼやかした。見え方が変わったのではなく、バスが違うところを進んでいるのではないか。知らない路線を進んでいるか、乗ろうとしたいつもの路線のはずなのに地勢が変動してすっかり違う場所になってしまったのか。そんな心細い想像をし、バスは一度、市役所の隣の、開店しているところを見たことがない小さな一軒家の喫茶店の前で止まった。皆そこで降り、空っぽになった車内を眺め、僕は音楽を聴いていた。悲しくて謎めいた、歌のないロックを聴いていた。音楽の秘める夢想の情景が車窓の外の闇に吸われて代わる代わる現れて消えた。歌の流れるあいだだけ想像のなかに立ち現れる風景や感慨が恐らく「世界観」の正体だ。僕はたびたび夜の高速道路を走る主観映像を彼らの音楽のなかに見出す。目覚めたまま夢を見ているように、好きな音楽は風景を運んだ。対向車線に光の軌跡を見た気がして、僕は歌詞カードの一節を思い出して聞こえないように小さく口ずさんだ。歌わない音楽に添えられた歌詞が、曲のどこに呼応しているのか僕たちリスナーには明かされないけれど、言葉は秘密の呪文のように脳の奥にいつの間にか記憶され、僕は、ふと思い出す。

『鉛色の一日』ははじめて聴いた曲だった。アルバム『she/see/sea』の3番目に収録されているミドルテンポの楽曲だ。Drive to Plutoは、初期の曲はノイジーで攻撃的で尖っている印象だが、時を経るほどに音色の作り方が澄んでいって、エレクトリックで技巧的ながらなめらかな手触りに丸くなっていった。『鉛色の一日』は初期と中・後期の橋渡し的な作風で、鋼鉄を削る重機のようなエレキギターの低音のうえに、雨粒みたいに繊細なピアノがメロディを乗せていた。もしもピアノだけで作っていたら甘ったるそうな歌だけど、バックで刻まれるのがハードな轟音だから、ロマンティックさがちょうどよかった。僕にはちょうどよかった。メロディが胸に迫った。ずっと聴いていた。

 小学校から中学校に進学したら毎日が精彩をなくした。地獄という程でもないが、日差しや雨を遮る屋根のない荒れ地のように感じられた。荒れ地に基礎も作らずにあてずっぽうに建てて傾いたささくれだらけのステージで、人はコントの中にいるみたいに自分の役割を披露して、僕も番組に引っ張り出され、笑いを取る日々は苦しかった。

「こんなのバカらしいよ。降りよう」

 ある日口走ったが誰も真意を掴める筈もなく。

 何かに打ち込む「キャラ」でもなく、毎日の話題に傾倒も出来ず、僕は「その他」の領域にいた。「その他」なりの居場所はインターネットにあったが、そこでも腰を据えられず、僕は殆どROMに徹していた。どこにいようとも匿名だろうとも、わざわざ語るまでのことではないと思っていた。僕が書くまでもなく面白いことを書く人間はたくさんいた。真偽不明の噂話や異文化・異国を揶揄したジョークやさすがに知らなくて良いレベルの下品な知識を知ってしまいながら、漫然と椅子に座って動かず、毎日生成される文章に目を通していた。

 やがてよく読むようになったのは怪談だった。オカルト・怪談・怖い話を好んだのは、大概のジョークよりも怪談の方が文章が練られていて面白かったからというのと、傍目に見てありえないと分かっているにも関わらず、怪談とそれを読んだ人間は、その実在を疑わないというルールで談義を広げているところだった。加えて日本国内の怪談の舞台は僕のいる場所と地続きである。少なくとも投稿した時点で投稿者は同じ島国に生きていて、その投稿日に僕は生きていたんだと思うと、他の作り話よりもはるかに鮮度が良い。しかし実際のところ、web上でリアルタイムに投稿された話を読める機会は滅多になかった。いつも誰か有志が編纂した「まとめ」の目次から、評価が確定した過去の「傑作」を読んでいた。そうして現在起きていることよりも過去に慣れ親しんでいった。

 公園の霊は、それだけはたまたま、ネットよりも、家族の口から噂を聞いたのが先だった。ネットを探すと、オカルト系のカテゴリではなく地域情報掲示板にひっそりとスレッドが立っていて、celestaもそれを見ていた。それからはまあ、そういうことになった。何の手がかりのないまま†闇巫ノ騎士†から幽霊の捜索を依頼され、僕はcelestaを捜している。
 ネットを使っている。しかし、リアルタイムに繋がることはできず、過去ばかり追っているように思う。いま起きていることよりも、残された出来事の手掛かりや痕跡を捜していた。かつての出来事、過ぎた出来事。無限の文献にめまいを覚えた。

 光の伝達が目に見えるほど遅れる広大な宇宙の話になると、宇宙の過去を探るには、望遠鏡で遠くを見る。それだけ遠い場所にはまだ億兆年前の光が残っているから。過去を見ることは遠くを見ることだ。
 今ここで起きていることよりも、過去と遠くの膨大なアーカイブを読み漁ることを選んだ。美しいものも正しいものも楽しいものも、ここではないどこかにあると信じ、遠くへ、遠くへと、もっと遠くへ行けるはずだとハイパーリンクをさまよっていた。
 過去の投稿に隣接する関連情報を手繰り、知り合いの知り合いの知り合い……と終着点のない移動に時間を費やしていたときに、Drive to Plutoに行き当たった。はじめて聴いたとき、目的地に辿り着いたような感じがした。言葉もビートも音色も、僕の理解の及ぶちょうど一歩外側にあるようだった。僕にとってふさわしい距離感の未知であり、もっと聴きたいと希求し、追いかけることが出来た。出会ったときには活動を終えていた過去の歴史だったとしても。
 地上から観察できる太陽光は8分前の姿である。僕が知った頃、冥王星はとっくに太陽系の惑星から除名されていた。いま追っている姿が冥王星の過去だとしても、仕方なく妥当な気がした。

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