学園祭の日、舞台の女優を照らす二台のスポットライトのうち、上手の係が不意に卒倒した。意識を取り戻さないその男子生徒は口の端からとくとくと真水を溢した。

「汐孝」

 女優が第四の壁を破って叫んだ。
 舞台下手のスポットライトは、舞台を降りて駆け寄る女優を捉え続けた。

「汐孝……」

 高校生の大根役者たちのなかで彼女だけが本物の芸術家だった。観客の視線の行方を知る毅然とした姿勢だった。筋書きに内在する余韻に対して正確に声を震わせた。それが悲しいと分かる声だった。

 救急車のサイレンが上演中の物語を別(わか)った。

 医師は詳しい病状を知らせなかった。家族の方にしかお話しできません。なぜなら、病と健康も個人情報に含まれるご時世だった。
 男子生徒の母は実家に静養し、父は全国の都市を点々としていた。
 下手のスポットライトを操る生徒に、女優は、契約の終わりを切り出した。

「どうして」いままで手も繋いだことのない仲だ。いままでの交際関係に意味がなければ、破局にも実効性はない。

「だって、私が彼についてなきゃ」

 彼は、彼女がヒスを起こすような「女」だったことに落胆した。彼にとってはヒスでしかなかったが、彼女は腹の底を固めていた。高校生の頃はただのショックによる盲信だった彼女の覚悟は、大人になってからいよいよ冷徹な本物になる。しかし当時の決意を「恋人」に伝えることは失敗した。恋人の反発は想定していたが、用意していた反論は互いの感情をケアしてくれなかった。幼かったのだ。高校生の規範やあるべきとされる姿から逃れられなかったし、あるべき以外の姿を学ぶ機会も見つけることができなかった。

「結婚すれば彼を守れる。法的に彼に付き添える」

「口だけの関係じゃないか」口約束の恋人は言った。

「そう、文字の上だけの利害関係なの、法の庇護を受けたいだけ。家庭なんていらない。私が、女でしょう。そしたら男の彼と契約ができる」

「思い込みもいい加減にしろよ。あいつがもし女に生まれてたら? 俺に、結婚してやってくれってすがったのかよ」

 彼は本当はこう言いたかった。「俺たち」じゃあ駄目なのかよ。どうして彼女は退路を断つような真似をするのか。友達として、もっと広い目で、広い仲で支えることもできるんじゃないか。しかし高校生の彼もヒスを兆していた。二人きりですべき会話ではなかった。蓄積された疑心が堰を切る。最奥にあったのは、疎外感。

「やめて」

 顔を近づける。親愛の情を所有欲が押しのける。どれだけ力の差があっても、心のなかでマウンティングしても、満たされることはなく、勝てないと分かっていた。

「守ろうとしていた。口約束だとしても、約束には変わんないだろ。俺はきみを特別視して、楽しませたいと思って、人並みに守ろうと」

「守るなんて言わないで!」

 少女の泣きそうな姿に少年は胸を打たれた。取り返しのつかない方向に二人で歩みを進めることも、創造の喜びの異なる現れ方のひとつだった。きみのことを傷つけたくはないが、きみと傷つけ合うこの時間は二人の営みだ。

「俺はきみが好きなんだよ」

 たとえ、知らない男に言い寄られたときの逃げ口に使われる恋人関係でも、手も繋いだこともない仲でも、一切の実効性のないただの肩書きに彼は愛着を抱いていた。
 でも相手は女優なのだ。いつだって最適なロールに自分を整形することができるし、ロールを着こむのと同じように脱ぎ捨てることにもためらいがない。
 彼女が俺を何らかの特別な役割に仕立てたことが嬉しかった。高等教育の場で、生まれに関係なく人々は対話によって絆を築くことができるのだと、平等の夢を信じた少年は、きょうそれを裏切られた。明朗で快活な彼女も、結局は女で、幼馴染を選ぶんだ。
 きみは、彼にとっての救世主のロールを選ぶのか。俺も彼の友達なのに。

 腹の底にドライアイスの小さな塊が落ちたようだった。以降、言葉の端々から白い冷気が漂う。

「それじゃ、俺にとってきみはただのお友達になったってことだ」

「敬司、ごめん、傷つけたかったんじゃない」

「いいよ。彼の回復が優先だ。そうだろ? その方がいい」

 

 大事には至らなかった。目覚めてから数日静養し、退院した。
 朝の教室に現れた彼の顔を見ると少し気持ちが晴れた。生きている。歩いている。

「よ、おはよう」

 心配させないよう軽い調子で声を掛けた。ノートを写す? 課題も手伝う。そんな親切に対してはにかむように微笑んで頷く、思慮深くておだやかな友達の姿は、見つけることができなかった。彼は目も合わせられない。申し訳なさでも感じているのだろうか。
 彼の前の席に腰掛けた。“いいって。友達だろ?”と、いつもの許し合う態度でいた。理性と言論に統治されたなら、人々は平等で、心の伝達は遅滞も抵抗もなく分かり合えるはずだ。

 伝えたはずの思いやりは打ち寄せる白波にかき消された。

 一度意識を失った彼には、相手の言葉は口の端から泡が立ち上るようにしか見えなかった。言葉に意味が伴わず、目に見える人々はひどく不自然に隔たれて遠かった。存在が遠い。二足歩行と言語を使用するには早すぎた。

 そういう問題じゃないんだ、と、親切心をはねのける、喉元まで出かかった冷酷な言葉は抑えられたが、彼が、顔を背けてしまったことが決定的だった。怯んだ弱い表情が一瞬伺えた。それは友達に対する態度ではない。
 この高校でなかったら怒鳴りながら胸倉を掴んでいた。血の上った少年が、変わり果てたかつての友達の肩に手を置き、微笑みかけるのに留まったのは、高等教育の賜物といえる。
 言わなくても分かる関係のような、美しい友情を夢見ていた。幻だったと分かった。

「何があったんだ?」

 問いに、かつての親友はいっさい応えない。
 その皮膚の下に誰がいるんだ? ゾンビみたいだ。熱病かなにかで人間らしさが焼き切れてしまったように思えた。同じ姿をしていても変わってしまった。不可逆的に。

 友達は失われ、女はお嫁さんになり、俺は結婚式を彩る無名のお客さんか?

「汐孝」

 だから、二人は俺を除け者にして幸福に、不幸になるのだろう。

「おい」

 こうやって悲劇と美談が成立する。俺も悲劇か? 恋愛と友情の天秤に軽んじられたKは現代文の教科書の例文に担ぎ上げられるって? 奇病で人が変わった友達は奇妙な体験談のログに埋もれて、献身的な介護を続けた妻は驚きの実話の再現ビデオの演目に編纂されるのか?

「汐孝」

 そんなんじゃねえだろ。

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