星待ち
 夜、バス待ちのバス停、今夜も空を仰ぐヒトミの横顔を、バス停の蛍光が照らした。鉛の雲が空を覆い、ヒトミが望む星は見えない。ヒトミはしつこく雲を見上げるが、晴れる気配は少しも無く、だめみたい、と微苦笑した。
「このごろは曇りばかり、秋雨前線のせい。それに秋って星に乏しいの。天の川も見えないから。すっきりした秋晴れなんて、なかなかないね。」
 夜、バス待ちの列、くたびれ果てた平日の夜を、駅からの光が皓々と照らした。どこからか鈴虫の声が聞こえる中、おれはヒトミの横顔を目線でなぞった。おれは、ヒトミの横顔をなぞるとき、必ず首から額へ、つまり下から上へなぞるのが習慣だった。目線は白い首から顎へ昇り、少し厚ぼったいくちびるを二つ越え、鼻筋をするりと抜ける。そして、下瞼から上瞼へ、なるべく丁重に彼女のひとみを伝う。筆圧は濃くしかし繊細に息を止めて一筆になぞる。あとは額へフェード・アウト。
 おれはヒトミのひとみにどうしても恍惚する。ヒトミのひとみは、いい。いいのだ。ヒトミは特別の美人でもなければ特別の個性もなく特別の化粧もしていない。だがヒトミのひとみはいい。何故か。答えは浮かばず、未だ恍惚の醒めない頭のまま、二分遅れのバスが来た。

「ひどいの。」

 不意にヒトミが零す。何故、とおれは問う。

「今、カシオペア座からペルセウス座のあたりに彗星が来ているの。明るさは四等級で周期は五六十年。近日点は十月二十日のぎょしゃ座カペラの周辺なんだけど……その日、満月なのよ! 二十二日のオリオン座流星群も満月だし、今年の観望は駄目みたい。」

 星を語るときヒトミは嫌に早口になる。ヒトミは人と話すとき早口をしない。星を語るとき(それは、星"へ"語るときかもしれない)のみの早口、それだけなら、まだいい。
 悲しきは、星を望むヒトミのひとみが実に深き愁いを湛えていたことだ。これは我慢が出来ぬことだった。おれが恍惚するヒトミのひとみを恍惚させて玩弄したそのくせ、空と雲とはヒトミに応じず知らん振りを決めこむのだ。しかしヒトミは毎晩空を見上げるのである。雲間から木星が覗く、ただそれだけでヒトミのひとみは綺羅めく。単純だ。ヒトミは、一途だ。ヒトミのひとみは、空へ。ヒトミの、おれが愛するひとみは一途に空を仰ぎ見るのに、星々はヒトミに一瞥もせぬ。

 ヒトミが、星の名をおれに講じたことがあった。

「秋のひとつぼし、フォーマルハウトは知ってる? 秋の四辺形の辺は下に四倍したところ。木星より暗いからちょっと目立たないけれど、秋唯一の一等星。フォーマルハウトはみなみのうお座で……うお座じゃないよ。みなみのうお座という別の星。
 それで、フォーマルハウトは"魚の口"って意味なの。ここが魚の口の所で、すぐ上のみずがめ座から零れたお酒を呑んでいるんだって。……」

 だがいざ南の空を仰いだ所で、みなみのうお座はどこも魚の体を成してやいない。フォーマルハウトも、何が口だ。みなみのうお座はフォーマルハウトただ一点ではないか。何が星座だ。

 星は星の名を為していない。しかしヒトミは誰よりもヒトミの名を為している。ヒトミ以上に「ヒトミ」の似合う者は無い。もし仮にヒトミがヒトミという名でなくてもヒトミは確としてヒトミなのだ。おれにとってはヒトミ以外の何者でもない。それもヒトミのひとみ故だ。だがしかし星は、星に恍惚するヒトミのひとみに目もくれぬ。厚い雲が空覆い、望み薄の夜の下、ヒトミはひとみにさびしい哀を宿すのに、星の身勝手なこと、大気の遥か上からヒトミをせせら笑うに違いない。
 奴らなど消えてしまえばいいのだ。星など、亡くなってしまえ。願った。ヒトミのひとみに一点も憂いの曇りを陰らせるな。そして、ヒトミの、何よりも星よりもよきそのひとみは、どうかおれだけに恍惚してくれ。星は、ひとみを見るな。うらめしき秋の曇天におれは毒をもって睨み続けた。星は、亡くなれ。

 さて、前線去り秋晴れ回復したある夜、願いはとうとう叶ったのであった。
 とある赤色巨星の超新星爆発を皮切りに全天各方でスーパーノヴァが続出した。死んではじめて、星は「超新星爆発」の名に恥じぬ爛々たる光を放つのだった。爆発は最大で満月程の光度で耿々と輝き、四等級で周期の短い彗星観測どころではなけなった。満天の星ならぬ満天の満月のごとき異様な夜空、この世紀の天体ショウに天文ファンらは沸き上がり、彗星やら暗い秋星を誰が覚えていることか。

「ああもう、生きているうちに、こんな空が見られるなんて夢みたい!」

 ヒトミを連れ立った高原の夜、ヒトミのひとみは光を捉え、爆死した星々がヒトミの横顔を白く仄暗くあかるくなぞった。『星月夜』の渦巻くあかるい夜空のように馬鹿馬鹿しきファンタジーの光景だった。ヒトミのひとみがどんなに煌めくかとおれはこころ待ちにしていたが、しかし星が散った今、きっと何よりいいと思ったヒトミのひとみは案外特別の魅力を得なかった。

「でも、どうしよう」

 この光の王国に似つかわぬ気懸かりをヒトミは呟いた。

「このスーパーノヴァでベテルギウスも爆発したでしょう? 冬の大三角はベテルギウス、プロキオン、シリウスなのに、ベテルギウスが欠けたら大三角は大直線になるのかな」

 下世話なことを考えるものだ。本人もそう感じたらしい。彼女は誰に向けてでもなく、強いて言うなら夜空へはにかみ微笑った。
 そしてそのとき、おれは、満天の星々の最期の輝きが、惜しげもなくヒトミにそそぐのを感じたのである。満天のスポットに照らされるヒトミ、光の王国に耀くひとみ。今までに無き熱と光が一瞬に生まれ拡がり、おれの胸へ、頭へ、体へ零れおちた。

 おれは、ヒトミに焦がれていたのだ。


彗星に捧ぐ '10.10.07
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