ボロボロのコートを纏った物乞いが横町に座り込んでいる。襟を立てて顔を埋める彼は通りを歩くぼくをじっと見上げ、ぼくもまたその男に一瞥を返し、髭面ではあるがぼくとさほど変わらぬ齢であることを知る。この男は何日間こうして過ごしてきたのか考える。身なりからするにだいぶ長いのだろう、よく持ち堪えた方だと驚く。通り過ぎたぼくはその男を振り返り見る。彼はもうぼくを見ていない。ぼくに施しは端から期待していないらしい。
向こうから灰色の三つ揃いにハットを合わせた老年の男が歩いて来る。胸に懐中時計の銀色のチェーン、手にステッキ。整えられた灰色の優美な髭。前方の物乞いを一瞥するが、与えるものは何も無い。
ハハハ! と男の笑い声。それは老人のものだった。物乞いは手を上げ、ニヤリとした様子で得物をちらつかせる。銃口から飛び出したのは鉛玉ではなく赤い花で、風にそよぐその一輪をそっとつまんで引き抜いた。物乞いがパチンと指を鳴らすと、花は白に色を変え、頭の上で花を一振りすればそれはステッキに変わり、それを回せば白いハンカチになる。ハンカチをくしゃくしゃに握り込んで勢いよく手を放すと、何羽もの白い鳩たちが狭い横町の空へ飛び立った。
物乞いは恭しく一礼する。老人は機嫌よく大笑いし手を叩く。ハットを脱ぎ二言三言語ると、若者を連れだって通りの向こうへ去っていった。またひとつ契約が成立した。物乞いだった若者は背筋を伸ばし悠々と歩く。近い未来にステージに立つ凄腕のマジシャンが髭を剃った彼であるとぼくは見抜けないだろう。お別れだ。いつか同じ店で働くかも知れない、ぼくより少し年長者であろうその男の背中を見た。その姿は勝者のそれだった。
こういった路上の契約の存在は知っていたが、目撃したのは初めてだった。立場の一八〇度転換。路上の屋根無しから大スターへ。しかしあのマジシャンの成功は決して運によるものではない。彼は恐らく長い間あの場に居座り成功を待ち構えていた。いつか現れる審査員を確信を持って日々待ち続け、ぼくの目の前で筋書き通りに成功をおさめただけに違いない。そうでもなければこの街で物乞いで食える筈がない。すべては実力による当然の報いだった。
出来ることがひとつあればそれでいい。ひとつでもあればそれでいい。住処も食事も娯楽の金も何だってそれで賄える。定まった自分の役割があればいい。それは街を動かす大仕事の市長も、客を楽しませる歌手でも、街の掃除婦も、要人のお抱え暗殺者にも同等に言えることだ。
建物と建物の間に自分の役割を据えること。空間を埋める積み木のパズルのように、うまく自分のピースを積み木の中に紛れ込ませて生き延びること。自分一人分の隙間を街の中から探し出す、あるいは自分を隙間の形に組み替えること。
役割の無い人間はこの街から殺される。物乞いを助けるものはこの街には存在しない。だからあのマジシャンは生き延びた。一方で能力の無い物乞いはどこかへ消えた。誰も何も与えなかった。
街の隙間を掻い潜り、途中の青果店でレモンを買っていく。うらぶれた通りにあるこじんまりした露店で、鮮やかなイエローが不思議に輝いて見えた。目の前にいる、指の節々に黒い油が染み着いたようなこの老人、露店の庇の下でちゃちな折り畳み椅子に座り込んでいる干涸からびた影のようなこの人物がいったいどうやってここに並んだ色とりどりの果実を仕入れてくるのだろう、男がいつからここに店を構えているのかも定かではない。
色鮮やかなものは街にはない。真昼の空は白んで薄曇り、街は埃っぽく色褪せている。色鮮やかなものは広告や看板やパレードや演劇、着飾った人々の服や化粧だ。ぼくはレモンに思い入れはない。ただ裏通りでは思い掛けない色鮮やかさに立ち止まってしまった。
にわかに表通りの喧噪が高まる。街を貫く大通りは劇場が建ち並び人出で賑わい、街の大動脈といっても過言ではない。お客たちでごった返しているその通りから、オルゴールの音が、聴こえてくる。定時を知らせる巨大なからくり時計は劇場の正面に象徴的に掲げられていて街を見下ろし、その古きぜんまい仕掛けの音楽とともに人形たちが劇を演じる。
「あんた、外から来た客か」店主が尋ねる。ぼくは茫然と店の前に立っていたのだ。客ならこんな所から離れろ、表へ帰れ、ここにお前を満たすものはない、と言わんばかりの物言いだった。
「お客のように見えたんですか?」
ぼくもなかなか垢抜けないものだ。「これでもけっこう強かに上手くやれてると思ってたんですが」
「いつからここにいる」
「はじめからです。気付いたら」
眉間に刻まれた、油とアルコールが染み着いた皺。
「劇場の人間か」
「いや」、「酒場の音楽屋だよ」
オルゴールの荘厳な音色と人形の役者の一挙一動に喝采が上がる。でもまだまだこれは余興に過ぎない。お客たちはこの夜に開かれる劇のためにここに来る。街では毎夜かならずどこかで演劇が繰り広げられる。
娯楽の街。そういうことだ。街そのものが娯楽を提供する機構で、街は舞台装置そのもので、ぼくらは裏方に相当した。表に立つ役者ではない。裏方たち、街の人間のための店にぼくは勤めている。客を楽しませる者を楽しませるという役割。それはこの八百屋も同じ。
「まあ、ありがとう。きれいなレモンだね。表に売ってる品みたいだ」
彼はもうぼくへの関心を失ったようで、顔も上げず品の整理を始めていた。でも「表よりも品は良い」と小さく呟いたのが聴こえ、なぜだかそれで奇妙に晴れやかな気分になり、また来るよとぼくは言った。表通りを経由せず、細道を伝って店に着く。真っ昼間の店にはバーマンのJとウェイトレスのPが気だるげに掃除をしている所だった。ぼくは適当なまかないの昼食をカウンターに掛けて食べた。
四十を越した頃合いのJが殆どこの店のマスターに等しい。本物の店主に任されて今は店を切り盛りしている。なかなか無愛想な人物で、気の利いた会話で客を立てるようなパフォーマンスは行わない。Pははたちにも満たない若い女の子で、つい最近やって来た。ここで働きながら小劇場で役者をやっていて、いつか大女優になることを夢見ている。大きな黒い瞳に引きつけられるが、そのほかには特別色気のない、平々凡々な女の子に思える。ほかにMというウェイトレスがいて、MはJ以上に愛想のない氷のような女の子で、まあその二人の看板娘がこの店を回している。ほかに雇ったり雇わなかったり、厨房係もいるものの、名前を挙げる必要があるのは彼らぐらいではないかと思う。
昼食を済ませたらミュージックボックスの点検にあたる。ピアノマンがいる店にもミュージックボックスは必要で、箱に入っていないレパートリーを人力で賄っていると言ってもよかった。
カウンターに置いていたレモンにPが目を付けたようだった。「X、レモンちょうだい?」
「いくら払う?」
「ギブアンドテイクでしょ?」丸椅子に座ったPが大仰な身振りで脚を組み直す。「X、最近さびしいんじゃない?」
「きみとデート一回って? やだよ、勘弁してくれ」
Pは愛想の振りまき方を間違えている。妙なことになる前に、レモン半分を切って、それぞれグラスのソーダに搾って飲んだ。
ミュージックボックスが終わったら今度はピアノの点検に当たる。ぼくは店内の音楽の全部の面倒を見なければならない。しばらく調律師を呼んでいないのが気に掛かっている。毎日聴こえない程少しずつ調子を狂わせていくこの機械。これを弾くピアノ係はこの店にはぼくしかいない。天板を布できれいに磨く。夜の水溜まりのように黒くつやめいているのが好きだ。一人のピアノ弾きとして、この機械には愛情を寄せていた。
椅子に浅く腰掛け鍵盤に指を添える。定位置。指も身体もなにもかも。ややこしい凹凸を備えたパズルのようなこの身体が、白黒の凹凸に組み合わさる。この場所にぴったりと収まっている。店の奥、グランドピアノは一段高いステージにあり、客席からは少しだけ隔てられている。音楽のために設けられた空間に、ぼくの身体を滑り込ませる。
カウンターのJに声を掛ける。
「ときどき、ソーダをさ、そこのレモン搾ってこっちにくれないか」
ピアノ弾きのわがままをバーマンは受け入れる。
さて、何を弾こうか。考えているうちに、気付けば演奏が始まっていた。指が回る、ペダルを踏む。楽譜を知っている。ぼくの手業は半分ぼくのものではない。ぼくではない何かが表出してぼくに弾かせている気がしてならない。だって、ぼくが全身全霊で演奏に没頭しているとしたら、こんなにくどくどととりとめないことを考えながら弾ける訳がないのだ。
そうしてぼちぼち、人が入ってくる時間になる。Mもフロアに現れる。劇場じゃあるまいし開店時間なんて決めていない。客が集まることと店が開くことはどちらがどちらの理由であるでもなく、毎日なしくずしに始まりを迎えた。でもあとから聞いた話だが、おおよその客が、ぼくのピアノが聴こえるのを合図にしていたそうだった。
日暮れ頃から客足が増え、店は喧噪に包まれる。ガチャガチャと食器がぶつかり合い、客の笑い声、トマトソースでべちゃべちゃな軽食、MとPは大忙しだがPはスマイルを絶やさない。
ぼくはピアノを弾いている。同時に店内を眺めている。どちらかがおろそかな訳でもなく、行為は完全に並立している。ピアノを弾かせるぼくの手は立ち止まらない。でもぼくは演奏を続けながら、ひどく冷静に店内を見回せる。自分の音色を確かめながら雑音に耳を傾けることが出来る。ぼくはミュージックボックスに伴奏を与えたり、時に自分で歌えたりもする。リクエストがあればすぐに応じる。楽しげなのを弾いてくれよ! 喧噪の中から要望を聞き分けて、ぼくはちょっと微笑んで見せ、今奏でている旋律から軽快に次の曲へ音符を繋げられる。お客は喜ぶ。拍手と賞賛。時々心付けも貰う。この店は裏通りの中でも品の良い方で、なじみの客は皆良い奴だと思う。品の悪い話は止めよう。Mは、一度そっちで働いていたらしい。あの界隈はぼくだって足を踏み入れようとは思わない。
ミュージックボックスが盛り上がればぼくは演奏を休む。喉の渇きを感じていたので、カウンターでレモン水を貰ってくる。その繰り返し。そうやって夜が更ける。演奏に没入する自らを自覚する。演奏の喜びに興奮を隠せないぼくがいる。でも頭のどこかでは、ぼくは身を引いて熱気の現場を眺めている。いつもどこかは冷静なのだ。やはり、自分が弾いていないみたいだった。例えばぼくはミュージックボックスの外枠に過ぎず、なかで音楽を奏でている機械が別に存在するのではないか。ぼくと演奏者のぼくは別人なのではないだろうか。悲観的な思考ではない。ただ、こういったことをくどくど考えながらも満足に演奏をこなせるので、やはり仮説は正しいのではないかと常々思い至っていたのだ。ぼくはピアノを弾かされながら、ピアノを弾くぼくを観察していた。ピアノを弾くぼくが座るこの場所を観察していた。店内、もう遅い時刻、ひとりの男が来店した。コートがうっすら濡れていた。
「やだあ、雨降ってるんですか?」
Pが尋ねるのが聞こえた。
「霧雨だよ」
返事をする男の声が小声の割によく聞こえたので、そこではじめて、おや、と思った。それが0だった。彼はピアノ傍に席を取った。Pと少し会話を交わす。「待ち合わせですか?」「いや、ひとり」……「教えて貰ったんだ。悪くない店だってさ」そして呟くのが聞こえた。「本当に悪くない」
ミュージックボックスが盛り上がってきたので、ぼくは手を止め水を貰いに席を立つ。いま劇場でやっている演目のメインテーマが流れる。やたら荘厳なラブバラードである。悲恋の物語らしい。
「なあ」
カウンターへ向かおうとしたその時、その男がぼくを引き留める。手を出して押し留めるとか、そういった動作は伴わない。声を張り上げた訳でもない。でもぼくに対して発せられたことは疑いない。
「どこ行くの?」
「水をもらいに」
彼がウェイトレスを呼んで、現れたMに「水2杯」と告げた。彼は彼で自分が飲んでいたモヒートをもう1杯注文した。それをぼくにも勧めたのだが、ぼくは酒が飲めないので遠慮した。Mはグラス2杯にミネラルウォーター1瓶を持ってきた。その男は水を注いで、向かいの席に座るようぼくに促した。年頃はぼくと変わらぬ位だろうか。
「ピアノ弾いてるのはあんただけか」
「あいにくね」とぼくは答え、はじめて男の外貌に注意が向いた。観察の余地が生まれたからではない。否応なく惹きつけられた。やたらと異様なほどに美しい目鼻立ちをしていたからだ。
「ピアノが良いって聞いてきた。おかしいぐらい上手い奴がいるって」
そして彼に惹きつけられる原因は美貌ではないことにはっきりと気が付く。彼は目の前に座るぼくを見据える。その目がどうにも刃物を思わせ、人を殺せそうな程に鋭い。店内の薄暗い光を一点に集めギラギラと反射させる。目線が突き刺さるのがわかる。刃物を宛てがわれているも同然だ。
「この店、あんただけで回しているのか」
とんでもない重圧だった。「回しているのはマスターですよ」
男の顔がニヤリと歪む。悪意なく笑ったのかも知れないが、美貌に反して目つきだけが不釣り合いに恐ろしく、その目に惹きつけられるうちに笑顔にさえも恐怖心を抱く。
「ずいぶんご謙遜なさる」
「そう買い被らないでください」
「本当にそうお思いなのか?」
目線をテーブルに落としても、彼の両眼から逃れられそうにない。青灰色の虹彩が輝いている。難癖付けられているに等しい。
「ぼくは一人のピアノ弾き。雇われてピアノを弾いているだけです」
「つまり自分は音響装置、と?」
「そう、主役はぼくじゃない」そう言って黙り込もうとしたが、まだ問いただされている気がする。「アルコールかな」と付け加えた。
「なるほどね」彼は目を細める。「するときみはどういう気持ちでピアノを演奏しているんだろう?」
「たのしいですよ」少し考え、「最近は思うところが色々とありますが」
「それは今度聞かせて貰えるのか?」
「実際に今、お聴かせしますよ」
グラスをテーブルに残して、席を立ち一礼。「ご希望はありますか?」
「何でも?」
「装置ですから」
「じゃ、悲恋の劇の主題歌以外で頼む」
「かしこまりました」
ステージに戻り、定位置に指を添える。同時に意識もそこに据える。装置。それが悪いこととは思わない。
ぼくの内の演奏家が鍵盤に没頭する。客の幾人かがそっと目をつむるのが分かる。男はあらぬ方を見つめながら耳を澄ませているらしかった。もう、ずいぶん遅い頃だろう。ぼくの判断に十指はしずかに従う。落ち着いた、甘い旋律。眠りについてしまうような曲。ぼくは別に自分の演奏で人が寝てもいいと思っている。ぼくは誰も聴いていなかったとしてもピアノを弾けるのかも知れない。それも好い。ぼくは、本当にぼくが弾いているかはさておき、自分の演奏は好きだった。
立て続けに2、3曲を弾いて、最後の1曲はハミングした。もうとっくに深夜だった。弾いた音が、余韻の震えが、静けさを取り戻した店内に伸びて消える。
また来るよと彼は言った。「あんた、名前は?」
「X」
「X、おれは、0」
「0?」
「劇場の役者だよ」
そう言って弾みすぎなチップを握らせた。彼はひとりそっと店を去った。
潰れた客を起こして回るPが、怖くなかった? とぼくに尋ねる。ぼくは残り物を夜食に食っていた。そりゃあ怖かったと正直に話した。「それだけ?」とPは言う。「もっと他に言うことあるでしょ?」
「おそろしく奇麗な顔してたね、顔も体格もやたら奇麗だった。そんで目が怖い」
そんなの知ってる、とPは苛立たしげに「他には?」と言う。
「役者だってさ」
「ねえ、レモンのこと根に持ってる?」
「ちがうよ。ふざけてる訳じゃない」
大げさにため息をついてみせるP。「あたし、あなたのことも相当ただ者じゃないって思ってる」
「ちがうんだよ、P」食器の片付けを厨房に任せて、ピアノを閉め、コートを羽織り外を伺う。外は霧雨に濡れている。
「ぼくはただピアノを弾いてるだけなんだ」
おやすみP。深夜の街を歩いて帰った。街灯は水溜まりに反射して、街は黒く輝いている。ピアノみたいな色の夜だった。