天井はガラス張りの高いドームで、低く唸り声を立てながら水銀灯が煌々と輝き、ガラスの向こうは夜だった。静けさのなかに照明の唸りと、夜の虫の囁きや、落葉の音が混ざり合い、人のものではない鬱蒼とした騒がしさを感じられた。湿度が篭っていたので、ここでも靴は乾かなそうだった。
 小道の両脇に枝葉が迫り、太った幹に蔓が這っている。露出した土はたっぷりと水を吸って膨らんでいた。植物の吐息が絶えず首筋に吹きつけられているような気がした。広大な温室のなか、人混み同然の気配が漂っているように思えて、首筋に手を当てて皮膚の下を探ると、種子ぐらいの大きさの柔らかいしこりが埋まっていて、彼はこの瞬間までまだしこりがあることを知らなかった。ゆるやかに曲がる径を行き、濡れた地面を踏みしめて緑のアーチをかき分け進む。祭日のような赤い花が集まって咲く一角を通り過ぎた。エリアごとにテーマかルールがあり、生息地の気候や大陸によって植物たちが区分されている。ここにある草花のうちいくつかは、野生でその姿を見たこともあったのだろうが、彼はいちいち覚えていなかったから、仮に再会があったとしても分からない。
 公園ほどの広さを歩いたが、誰の姿も見かけない。歩くことは好きだったから彼は少し回復する思いがした。靴さえ濡れていなければ上出来だ。しかし蒸した温室のなかで喉と唇の渇きはごまかせず、酸素も植物たちに奪われて充分量に足りていない気がした。

 温室を縦断して辿り着いたのは、礼拝堂を思い起こす開けた空間だった。突き当たりの左右に高木が聳え立っていて、向こう側は高いガラス壁で行き止まりである。ドーム天井に向かって真っ直ぐ伸びる透明な壁面がステンドグラスに似ていたというのと、木々が途切れて開けたところに腰の高さほどの花壇が等間隔に並んでいたから、結婚式の参列席を連想した。花壇は、広場を突っ切る仮想のバージンロードを避けて間隔を開けて左右二列に配置されていた。司祭が水遣りしやすいように導線が確保されている。そこには多肉植物が並んでいる。見慣れた形のサボテンからサボテンのなかの珍種、鞭のような葉をしならせる草木、女性器を彷彿とさせる切れ目をもった肉厚の植物。石にも肉にも似ている塊が、それぞれの差異に名札をつけていた。名札は几帳面な手書きの文字だ。
 最前列の中央、司祭か花嫁の立つべきもっとも神聖な一角、他の花壇から一歩前に出たその位置に、芽を出すように半分土壌から露出していたのは、手の平大のタカラガイの貝殻だった。
 植物の気配だと思っていた野生への畏怖の念が、たったひとつのタカラガイによって、ひとりまたは数名の名前を知る人物に収束した。謝らなければならない相手が何人もいた。後悔と謝罪の亡霊が霧になって服を湿らせる。
 貝の裂け目を耳に当てたが、静寂から何かを聞き取るためには照明と植物がやかましい。貝の背後の壁面を探ると恐らくは電灯に伸びているスイッチがあった。照明を落とすと、1秒かけて、温室は闇に転じた。静寂も訪れた。
 彼自身闇に目が慣れず、順応を待った。明かりを消したことで温室の外が照り返しなく見えるようになった。ここはなだらかな高台の頂上のようで、遠くに街明かりがまばらに見える。街明かりがやたらとぼやけて見えたので、目をこらすと窓の外では霧のような雨粒が落ちることなく静止していた。手を伸ばして周囲を確かめながら、伸びた長い葉に身体を引っ掻かれたりしつつ、彼はタカラガイのもとに戻った。闇のなか、陶器に似た質のつややかで丸い貝殻が、暈をまとうほどの白さを発していた。もう静寂だから、声は聞こえるだろう。少し歩くと小高い丘に築いたタイル貼りの一角に誂え向きの白いベンチがあった。そこから花壇を見晴らせる。並んで座って、そして、何年経ったのか考えた。時と身体の隔たりは、血を分けたふたりの会話をぎこちなくする。

「げんき?」貝殻の隙間から漏れ出るさざなみが、よく知るひとりの声に収束する。
「まあ、んん」
「そっか」
「ああ」
「生きてる?」
「生きてるよ。まだ、しばらくは」
「よかったと思う」
「ずっとそこに埋まってたのか?」
 貝の声はちょっと笑った。「そういうことじゃないだろ」
「分かってるよ」

 貝の相手の微笑のしかたを彼はよく覚えていた。おずおずと照れくさそうに、少し申し訳なさそうに笑うのだった。なんなら真似することも出来た。同じ血が流れているというのに顔立ちは全然似ていないけれど。
 闇に目が慣れて、青黒く茂る異国の森の姿がふたりの前に映し出された。

「元気そうでよかった」貝は言った。
「何してたんだ」彼は返した。
「ベランダで、月を見てた。風が吹いてきたから、鉢植えの様子を見ようと思って」
「おれは……迷ってた。ヘンなポケットに入り込んでんだ」
「出られるの?」
「どん詰まりだと思う。けど、まあ、迷ったのは枝葉に過ぎなそうだ。どうにでもなるよ。おれはしぶといし、別に、今はボーナスステージみたいなもんでさ」
「そうだね」

 ここはおまえが作ったのか? そんなことも訊けなかった。時間のなかの無数のポケット、どれが本流なのか流される者には分からない、分岐して閉塞する数々の時間の流れに洗われるひとがいる。
 彼はものすごく悲しくなる。酒を、貝の硬い口に並々と注ぎ込んでやりたい。貝を器に杯を交わそう。酒のことを思うと温室の喉の渇きがふたたび目覚め、彼はシャツのボタンをゆるめて顔を手で扇いだが、貝は室温を感じない。月が見えないものかと天を仰いだ。曇り空の夜の青い雲が明暗のもやになって天を覆っていた。月の光は見つからない。ドームの梁がほの白く天を渡すアークを描いて、むかし見たプラネタリウムの半円の宇宙みたいだった。頭上をわたるドームの輪郭線のおかげで、ここが未開の密林なんかではなく、どこかの温室のなかであると判断できた。赤い花が咲いている。温室は閉ざされている。入口も出口も分からない。
 僕は固められた周遊道を道なりに歩いていった。あたりは夕暮れ直後のように一様に青黒い。終わってしまう、間に合わなかった、これから歩き出したところでもう手遅れだ、そんな強迫観念に囚われる。
 植物たちはめいめい好き勝手にガラスの部屋のなかで枝葉を広げていた。それらは朝の満員電車に詰め込まれて苛立ちながら縮こまる人々のふるまいとまるで反対で、ひたすら自由であろう、自分のために枝葉を伸ばそうと、押し除けたり身をかわしながら、どこまでも広がり続けてやろうとする上向きの強かさを感じてならない。どんな日陰の草木でさえも、溢れるほどの繁殖の意欲を惜しげもなく広げている。そんなわけで、植物の力強さに圧倒されないようにしながらその合間をくぐり抜けるには、ある種の覚悟が必要だった。
 心細さ、頼りなさを抱え、行く手を覆うばかりの植物を掻き分けていくと、突然に茂みは開けた。開けた場所に花壇が整列し、タイル張りの高台の上の白いベンチに座っていた男が突如立ち上がり手に持った何かを突き出し、僕はとっさに両手を頭の高さに掲げた。遠くてよく見えないが、ハンドガンを向けられたと思った。
 
「うわあ、何、どうしたの」のんびりとした男の声が聞こえた。
「なんでもない」銃を向けた男が返した。銃は、親指と人差し指を突き立てたジェスチャーでしかなかったが、仮想の銃口を向けられた瞬間、胃が冷気で鷲掴みにされた。

 僕は両手を掲げて棒立ち。

「わあびっくりした。誰のお客さん? きみのほうだね、形がある」

 のんびりした調子で喋っているのは銃を向けた男ではない。銃の男は親指と人差し指による警戒を慎重に解いた。「迷子だろ」と呟く。

「クセは治らないんだね」
「染み付いてんだな」

 男はベンチの座面に置いていた純白のタカラガイの貝殻を掴んでこちらへ降りてきた。もうひとりの声は貝殻のなかから聞こえた。

「もうそろそろ出るか」

 男は貝に尋ねた。

「閉館の時刻だ。迷子も連れて帰らなきゃ」
「おふたりは、どちらから?」僕は尋ねた。
「おふたりだって」貝は笑った。茶化すようにも、嬉しそうにも聞こえた。「おとなりから来たんだよ、それぞれ反対側から」
「こいつはここから離れているんだ」男が貝を指して説明した。「この外にいる」
「ここは?」
「見てのとおりの植物園だね」
「おふたりが管理されてるんですか?」
「管理はしてないな」と貝。
 生身の男はつっけんどんで、貝殻の中にいる方が話好きで喋りたがっているようだった。
 月明かりに照らされた闇の植物園を、僕ら二人と貝が歩く。来た道とは異なる整備された径を貝が男に案内する。熱帯の睡蓮を見ていこうと言った。

「夜咲睡蓮が咲いているんだよ、滅多に見られるもんじゃない」

 貝は楽しそうにしていたが、貝を持つ男は特に感想なしといったところで、改めて見ると彼は全身ずぶ濡れで、憔悴したふうな険しい顔をし、とてもねぎらいたくなった。貝が男を先導し、僕は後をついていった。貝がこの植物園を把握しているのだった。通りがかるたびに貝は植物の名前と植生、由来、葉のつき方や花の形などの観るべき箇所を誇らしげに語った。僕は貝の博識さに感嘆した。

「誰にだってきっとそういう場所はあるんじゃないかな」
「特別に詳しい場所ってことですか?」
「いや、集めたものをしまっておく場所」

 ねえ? と貝は男に尋ねた。
「どうだろうな」と男。

「気づかないだけだよ。だれにでもある」と貝。「きみはどうなの?」

 僕はいっとき逡巡して言った。「途中なんだと思います」

「ある人は墓標の立ち並ぶ終着の浜辺だと言った。ある人は演劇が延々と繰り広げられる見世物の街だと思った。水の底に沈んだ青い静寂の世界を思う人もいた。絵画のなか、森のなか、ひとつの国家と大陸、温かい書庫の埃、みんなのなかみを足していくと地上の面積よりもきっと広いんだろうね」

 温室内のプールに赤紫や青紫の花がぽつりぽつりと開いていた。濁った水のなかには金魚やネオンテトラが潜んでいる。
 睡蓮には品種の名前が当てられている。「カノープス」は柔らかいカーブを描いた白い花弁、「ブルー・モーメント」は尖った青紫、「スカーレット・ルビー」は赤紫、「カストル」は青みのかかった白い大振りの花。

 ずぶ濡れ男は赤い花をじっと見ながら「仏のアレは、ハスだっけ、睡蓮だっけ」と貝に尋ねる。

「同一視されていたようだよ。仏教には白・赤・青・黄色の蓮華が登場するけれど、青い花は熱帯性の睡蓮にしか咲かない。インドには混在していたようだね」
「ハスと睡蓮はどう違うんですか」
「見た目に限って言えば、ハスの方が背が高い。元気なところだと水面から1メートルか2メートルも伸びるよ。泥の中から背伸びして美しい花を咲かせるのが、仏の教えに通じるらしいね」

 青い光を翻して、しらすほどの大きさのグッピーみたいなのが茂みを泳いだ。

「ずっと見てたい?」

 ずぶ濡れの男が尋ねてきたので、驚いた。「ずっとここにいたいか?」冗談と冷笑の交わった声だった。
 僕が返事をできなくても、彼は悟って言葉を続けた。

「だよな、誰かの中になんているべきじゃない」

 貝殻は押し黙った。

「覗き見るものでもないさ。景色は据え置きで、どんなに広くてもひと一人分の余地しかない。他人の風景を見たってそれはそいつのための風景だし、何考えてんのかなんて言葉と仕草で伝えるしかないよ」

 次のエリアは食虫植物だった。ハエトリグサは二枚貝のように進化した葉で、葉にとまった虫をパクリと挟んで捕まえるが、面白がっていたずらにパクパクさせていると株が疲労で枯れてしまう。捕食に要するエネルギーが餌から得られるエネルギーを越えてしまっては本末転倒なので、食虫植物の大半は粘液や消化液でトラップを作って虫を待ち構える戦略をとっている。
 虫取りスミレという種の葉にショウジョウバエが多数付着していた。ハエ取り紙やゴキブリホイホイのように、葉から粘液を出して虫を捕まえるのだという。植物たちは消化液に濡れててらてらとなめらかに反射していた。葉の表面の赤いまだら模様が怖いと思った。虫を待って動かない食虫植物たちからは、生きて動き回る肉食動物の生態よりも直接的な死の気配を感じた。

「グロテスクというのは動植物装飾が由来だ」と、貝は満たされた様子で語った。
「すごいですね」僕は引きつっていただろう。
「集めることが好きだった。多肉植物の小鉢を庭に置いて、無理を言って庭に小さな温室もこしらえてもらって、母の花壇の面倒を見る代わりに好き勝手にしてもらえた……何だって集めたかった。鉱石と図鑑を引き出しに溜めて、水槽で魚を飼って、地図帳をえんえんと読み返して、星の名前と石の名前を覚えて……生き物の名前、年表、坂道、譜面、水の浸食、飛行機、筆記用具の種類……おのれの周りの豊かさを祈り、集めて、集めて、ひとつの知識の城を築き上げた」

 ウツボカズラが天井のあちこちから垂れ下がっていた。

「僕はたった一人の王様となりはてない増改築に心を奪われた。しかしじきにとうとう同じことしかやっていないんだと気が付いた。何を集めようとも、集めて築くという営みはすべて読み書きの形をしていた。知識の城は言葉の塊だった。現実存在を言葉による定義と説明が埋め立てて、存在は書物の言葉で伝達されるから、言葉を押さえていれば現実を掌握した気になってしまっていた。言葉自体には何の価値もない。言葉は材料、絵の具に過ぎない……何の絵の具を使うかよりも、何の絵を描くか、だよね」

 びしょ濡れの男が何かを言った。貝は申し訳なさそうに振り返った。「きみが見てきたものを知る術だって言葉だったんだ」

「貝殻は常に裏側を向いている」

 男に手渡され、僕ははじめてタカラガイに触れた。陶器のような手触りだった。生き物だとは思えないし、自然物だとも思えない。

「この模様のない真っ白な表面は、裂け目から裏返したタカラガイの内側だ。貝の模様は内側にあり、無地の裏側が外気に触れている。ということはこの白い裏側を見ているおれたちは貝の内側にいるんだ。こちら側にあるのは閉塞した貝殻に縮こまっているぶよぶよした不確かな肉だ。おれたちは貝殻の内側にいて、外の世界は、この貝の口の向こう側にある」
「それで」と貝が遮った。「タカラガイは外套膜という貝の身の一部を貝殻の外に出している。生きているときはやわらかい貝の肉が貝殻の表面を包んで覆い隠している。肉が貝殻を守っている。もういちど表裏の逆転だ」

 ガラスの門が開け放たれた。僕は促されて外に出た。高台に建つ植物園、丘の下に僕らがよく知っている生まれ育ったこの街が見える。明かりのひとつひとつが知らない誰かの家で、既に眠りについた部屋にひとり静かに灯る常夜灯か、玄関先で住む人の帰りを待つ光のしるべか、静寂の時刻に耳を澄ませて孤独な作業にいそしむ人たち。遠く東西に明かりのない闇の一帯が街を分かち、それは深夜の川なのだった。それは亀裂で穴だった。つややかな闇によって隔たれていた。

 温室から男が外に伸ばした手は、外気に触れた途端、雲母の表皮が剥がれるように目に見える風景から剥離して消えた。男は驚かなかった。手を引っ込め、植物園の湿度のなかで男は人の姿を取り戻した。凝視してしまう僕に「そんな顔すんなよ」と言う。
 眼下には僕らの街があった。家は川辺に立っている。闇のほとりで待っている。
 僕は男の銀色の瞳をはじめて見つめた。どうして彼は出られないのだろうと考えてしまうと際限なく悲しくなった。男はタカラガイの裂け目を耳に当てた。波の音が聞こえてくる。終着の浜辺で待ち合わせている。

 僕は坂を駆け下りた。足がもつれ、実際に時を刻む1秒の速度と僕の体感の時間経過が合致しなかった。時間が速いのか僕が速いのか僕には判断できず、ただ時間が僕から剥離して、僕が時間から振り落とされる。速度を上げる、足がもつれて転びそうになる、浮遊感に近い危うさを覚えながらそれでも走ることを止められず、喉の奥に血の味が滲んでいる。じきに大粒の雨に降られ、バスを降りた。

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