C駅地下の小さなCDレンタル屋で物色していると、Jロックのトの棚へ伸ばした手がちょうど他人の指先に触れた。同じ物を手に取ってしまった気恥ずかしさで会釈し、相手を見上げると、相手も同じく僕を見て、そこで何かが引っかかり、僕が気付くよりも彼の回転は早く、とっさに名前が出かかった。でも思い出しきれていなかった。「ああ、あの」と喉に詰まっている。僕の名前がややこしいからだ。僕もまた、相手の声や挙動を確認してやっと確信したからフィフティ・フィフティだった。

「ホズミですよ」

「そう、夏生くんだ」

 その、ふわっとした髪のカジュアルでおしゃれな男は私服の高田巡査だった。巡査はマネキンみたいに模範的で一切ほころびのないファッションだった。休日のための幸福な正装という感じがした。格好のせいもあり、休日というのもあり、以前よりも物腰が柔らかい。

「君が先だった」巡査は僕にアルバム『141016』を手渡した。

「あ、いや、いいんですよ」僕は断る。

「いいよ。遠慮なんて」

「持ってるんです。ただ、あるなあと思って手に取っただけで」

「Drive聴くんだ。僕の世代よりもちょっと古いよ」

「なんか、好きで、好きなんですよ。僕はあのころの感じ、90年代の終わりからゼロ年代のはじめがすごい好きで、でもこのひとたちが一番最高で」

「わかる」

 僕の嗜好への「わかる」ではなく、円滑な会話のための同調でもなく、誰にでも愛すべきこだわりはあるよな、という「わかる」なのだろう。批評家的な嫌味はなかった。
 裏に隠した大切な好みをちょっと撫でられて褒められると、人は弱い。すぐに気を許してしまう。「○○好きに悪い人はいない」と、かんたんな区別で相手を無条件に褒めたくなってしまうのも仕方がない。

「俺もね。最近聴き返したら、急にDay Dreamが良くなって、ずいぶん前に借りたっきりで、全然聴いてなかったのに。それで他のを探しに来た。『汀線』は観た?」

 僕は知らなかった。アルバム『Soundescape(サウンデスケープ)』収録曲をエンディングに起用した日本映画らしい。一昔前の作品かと思ったら、今年の新作である。

「あれに俺の知り合いが出演してる。観に行ったらエンディングで『魚のヒロイン』が流れて、懐かしくなってアルバムを聴き返した。でも映ってた筈の知り合いのは見つけられなかったんだよね」

「すごいですね、俳優なんですか?」

「いや」巡査はためらっていた。「実はよく分からない。しばらくの間、五年ぐらい、顔を見合わせていなかった」

 土曜の夕方、一人暮らしの高田氏は食事を取って帰るようだった。「どう?」と僕を誘った。「奢るよ」。まあ、これも経験か、と、きまぐれに僕は着いて行った。

「どこがいいかな。ファミレス?」

「いや、僕、ファミレスはあんまり」

 というのもバイト先がファミレスだから、非番の日は極力向かいたくなかった。高田氏は少し考えて、駅の裏手に僕を案内する。

 C駅周辺は閑静なニュータウンで、街並みはその誕生から都市計画者によって整備され、常に子供やファミリーの通行を想定した一定の清潔感を保っている。駅前からデパートへ続く通りは大きなレンガ橋になっていて、空を遮るものはない。一方で駅の裏手は駅舎の日陰になっていて、高架下の細道に居酒屋が集まり客引きがたむろす、自然発生的な飲み屋街だった。

 高田氏は雑居ビルの地下1階の創作和食居酒屋に僕を案内した。未成年者の僕は少しどぎまぎして席についた。薄暗い照明の店内の四人掛け個室席は、ふだんファミレスの明るい店内に立つ僕には物珍しく目に映った。
 奢りというので、僕はたいして希望せず、高田氏の好みに合わせた。ジョッキ生、コーラ、ゴーヤチャンプル、焼き鳥の盛合せ、だし巻き玉子、鉄板オムそば。

「ふだん、居酒屋ってあんまり行かないんだよね。だいたい兄貴と来るんだけど。俺は大学行かなかったからなあ。高校の友達なんて、大学入ると離れる一方で……現役高校生に言う話ではないな」

「そんなもんだと思ってました」

「冷めてるな」

「だってたった三年間ですよ」

「最も希少な三年間だ。ほどほどの自主性のなかで誰からも尊重される自由を謳歌できる」

「それ、少年犯罪のこと考えてたりしますか」

 大皿のゴーヤチャンプルを取り分けた。高田氏は乾いた笑い方をする。ハハハと言う一音一音がはっきりしている。

「四六時中そんなこと考えちゃいないよ。だっていつだって『おまわりさん』でいるんじゃない。そしたらネットなんてしてないだろ?」

 聞き役に徹することに決めた僕は「なんで警察官になったんですか?」と問う。「進路相談かよ」と高田氏は笑う。

「公務員を考えてた。警察か消防だなって。で、消防よりも警察の方が俺は好きだった。べつに命を救われたようなドラマチックなエピソードはない。
 あとはまあ、なんだ、環境を変えたかった」そう続けるまでに氏はビールを一口含んだ。

 チャンプルもオムそばもコーラも辛い油で湿った味がした。団体が入店したのか、個室を遮るすだれの向こうがガヤガヤと騒ぎはじめる。

「高校生なんて面倒なものだ。狭いくせに、その人間関係だけを世界みたいに捉えて、視野も行動も限られている。……最近思うことがあってね。知ろうとすればするほど、外に出たと思っていた筈の世界も閉じていくような気がするし、求めてた筈のものの薄っぺらさに気付いてしまったような、俺が変わってっちゃったような……。
 ある怪談があって。ネットで。シリーズもので、数レスかけて掲示板に不定期に投稿していく短編集仕立てになってて、まあ拙い文章なんだけど、怖い話としては満足な分量があって、本当かどうかは怪しいけど民俗学的な小ネタもあって、まあ高校生の俺には楽しめたんだよ。なかには未完のエピソードもあったし、匿名掲示板だから二次創作とか贋作とかも混ざってる。ジャンクだろ、俺はその、ないまぜになった不詳の感じを面白がってたんだと思う。そりゃまあ、どう考えてもフィクションなんだけどさ、まだ留保されてるんだ。『この物語はフィクションです』って断言がなくて、投稿者名にトリップ……投稿者が本人であることを保証するパスワードはついてたから、たしかにひとりの作者がいる作り話だったんだけど、ギリギリで誰の著作物でもないような気がしてた。話はコピペで拡散されて、有志が勝手におのおののホームページにまとめてた。誰の所有物でもない漫然とした状態に、俺も触れていいっていうのが、良かったんだろう。
 そしたらさ、ちょっと前に、それ『書籍化』しますって。『未完のエピソードの完全版を収録します』って、カバーに登場人物のイラストがあって……怪談はスレ主の体験談って設定で投稿されてたから、つまり、スレ主たち本人がキャラ化されて載ってんだよ。
 俺はあの話が好きだった。 エンタメとしてさ。けどさ、本になるって決まった瞬間、大げさに言うと失望したんだ。キャラ絵なんてイメージだとしても見たくなかったし、本になったことで誰の権利物なのか、どこにカネが発生するのか明確になっちまった。
 カネを払いたくないってんじゃないよ。そうじゃなくて、形あるものに変わってしまうと、……仮に実写化にしてもそうだけど、どんなメディアでもパッケージ化されると利権と責任者が発生する。
 俺は怪談を読みたいんじゃなく、誰の所有物でもなく語られ続けた集合知のなかにいたかったんだと思う。そういう不明瞭なものって、つまり、高校生の俺が暮らしてた世界にはなかなか無いものだし、数少ないその発露の例が、ネットのなかのエピソードだとか、怪談や都市伝説だったんだろう。
 俺もさ、いつかは、詠み人知らずの“名作”のなかに加わりたかったんだよ。“名作”に俺も加担したかった。瞬間の盛り上がりに加担して、みんなの共有財産のなかに一言だけでも参加したかった。
 ……って思ってたんだけど、最近それも冷めた。というか、変わった。
 よく喋るなあって思ってるだろ? 酒の魔力だよ、そのうち分かるようになる。今は遠く思えるだろうけど二十歳なんてあっという間さ。堰を切りたくなる時には、酒で頭を浸すんだよ。高揚感が背中を押してくれるような気がして、口が回る。
 人は話を聞いてほしいんじゃなく、ただ口にしたいだけなのかも知れない。その場の発露で、本当は何もかも満足して、記録と伝達なんて市民には興味がないのかも。だからメールや掲示板やらでユーザーは壁打ちしてたけど、その後はもっと即時的でログの残らないタイムラインが台頭している。頭の中に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き綴れば……って。かくいう俺はそういう雑文を読み漁ってきたんだけど。
 書こうと思ったことも何度かあるんだけどね。細部をぼかして変形させて、いつか誰かに聞いてほしい話があった。いつかどっかに投稿しようと思ってた。でもチラシの裏だし、これは、残らない方がいいんだろう。まだ、旧校舎だったころの話なんだけど。

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