眠りに着くまで

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『眠りに着くまで』分割版 全18話

 

 とかく、人の世は生き辛い。
 とは言ってはみるものの、近頃懐は温かかった。電子書籍1作目の売れ行きは伸び悩んだが、2作目は進行・作画を女性漫画家が担当し、20〜30代女性向けモバイル電子コミックサイトで配信したところ、プレビュー数は好調である。ワンコイン鑑定で電子決済を導入したのも功を奏し、駅前のこの露店でもピピッと電子マネーのワンタッチで未来を引き落としていく者が増えた。
 壺の方はといえばそう上手くはいかぬ。まじないを丹念に練り込んでいるゆえ守護の効き目は抜群なのだが、一品物のため売値が高くつき、霊感商法と混合される。焼物の師は壺に限らず茶器全般の制作を助言した。小生の作風には大きな壺よりも小振りな作品の方が品良く纏まるようで、夫婦茶碗を即売会に出品したところ、しかるべき二人が茶碗を買い取ったらしい。人は皆それぞれに良い塩梅の大きさを持って生まれている。己に収まるものを作り、収まるものを手元に置けば良い。
 しかしあくまでも小生の性分かつ使命は路上の運命鑑定であり、今日もまた眼は視るべき者を捜し求めている。
 人々には血の気の色が目立ってきた。必ずしも血の赤色ではないその闘争の色、あるいは疲弊の鈍色が、人々の汗腺から滲み出し、混ざり合い街は錆色に似てまだらの模様を漂わす。視える者は不透明な色の靄の中で着色のない穴のようにぽっかりと浮かび上がって見える。あるいは不似合いで鮮やかな絵の具の原色を放っている。

 暮れなずむ街、一人の男を呼び止めた。何色も発していない深い穴のごときその男は、はなから占術など気に掛けたことが無いに違いない近代合理主義者の表情で、というのも穴のような人々に顕著な特徴だが、彼らの信条は合理的ニヒリストの気が強い。

 声を掛け引き留めることは容易だ。

「申し、落としましたよ」

 と言えば立ち止まらぬ者はいない。
 彼は怪訝に外套の隠しをまさぐる。

「それと、誰に何を吹き込まれたかは知らないが、赤い薔薇の花束はおよしなさい。貴方がたにお似合いなのは、ガーベラなんてどうかね。どこの花屋にも小さな花束が置いてあるだろう」

 男は黒一色の外套と同じ眼差しで私を見つめるが、何も語らない。赤い薔薇だけは図星だろう。

「なに、おかしなことはしていない。勘が鋭いと言えば科学者の先生方にも納得して貰えるかな。私はね、勘の鋭さを仕事にしている。賭博師や名探偵とは少し異なるが、そのような所だ、時には推理もするが……ああ待ちなさい、次の電車でも間に合うだろう。良かったら何か視ていかないか。勿論、金も情報も払わせない。そう……雑談だよ。たまには、気分転換にどうだね? 3分。ほんのそれだけ、気の触れた男の戯言を聞くだけで良い」

 情報網に於いて出会ったことのない人物だった。黙り込んでいるその男は視れば視るほど、この空間に空いた穴そのもののようで、落ち窪んで見えざる中心へ絶えず流出していくかのようだった。
 死相があった。しかし生に疲弊したためではない。

 花束はこれから会う人物に渡すための贈りものか。しかし視えた様子では、対象への友愛心も穴の中に吸い取られて心此処に非ずのようだった。思慕でもない心情に彼自身が途方に暮れているらしい。

 彼の奥底に、あの雨降りの少年と、それから見知った幾人かを垣間視た。どうやらそれらの繋がりが、私の下に彼を呼び寄せたようである。しかし彼にとって彼らの面影は取るに足りない空気のごとき事象の様子、彼のなかに仔細なディティールは残っていなかった。それは馬耳東風の無関心というよりも、砂の中に吸い込まれる雨のように彼を通過したらしい。

「底が深い。自分でもその奥底を視たことは? ある。それが、物心のついたとき?」

 穴を有する万人が穴を覗き込み続けていることはない。穴は、多くは、記憶や信条を放り込むための貯蔵庫であったり、彼を浮かす力の神秘の熱源だった。人は穴に寄り添い生きる。しかし彼の穴は強大で、彼は生まれてこのかた穴の内側から世界を眺めているらしい。
 小生には穴の淵までしか視えぬ。表面張力で彼は彼の形を持ち堪えているが、既に溢れかけている。
 なおも花を持って人に会いに行こうというのか。

「ここだけの話をしよう。君は聞き流しなさい。大丈夫、人は本当は見たもの聞いたもの全て覚えているのだよ。それを思い出すには意識が足りていないというだけで、君に流れる無意識のなかに経験はちゃんと響いている筈だ。記憶とは分厚い書物ではなく、書物に挟んだ栞のことだ。栞の位置を忘れても、文字は本の中にきちんと留まっているだろう。

 こんな説がある。
 クラゲには眼があるものの、視覚を処理するための脳が無いそうだね。
 これは、クラゲが海そのものの目として生まれ、海を見る為、という俗説もあるそうじゃないか」

 私はね、時の下僕なのだよ。私が視るものは視るべきもののみで、私は視るための眼に過ぎない。大いなる時の目を代理している。
 君は、位相の断層に生まれ、狭間に立っている。

「私には見えないが、君の視る世界は美しいな」

 彼は踵を返す。坂を下り駅の方角へ。既に私を忘れかけながら。
 海の屈折率は大気と一致し、彼は溢れかけている。

「……さて」

 駅方面からの不穏な濁りが、泥水の澄んでいくようにゆっくりと後退する。何かを免れたようだ。
 全てが済み、全てが澄み、もう店じまいの頃合いである。雨になる前に店を畳む。
 彼は、しかし、傘を持っていなかったようだが?

 

「あいつマジで赤い薔薇買ってったかな」

 クックッと悪人そうに笑いながらザムザさんはお茶を淹れます。

『そういうタイプじゃないとおもう』

 わたしが言うことが「聞こえた」かは、いつもよく分からない。
 小鍋で茶葉からミルクティーを煮出しました。帆来くんは牛乳があまり好きではないので、ロイヤルミルクティーはわたしたちの時だけのドリンクメニューで、ザムザさんのレシピではかすかにシナモンが香ります。茶でもしばいてる間に夕飯決めようぜとのことでした。

「夕飯決まった?」
『まだ』
「なんでもいい」
『洋食のきぶん』
「買い物には行きたい?」
『……めんどう』
「じゃあオムライスだ。牛乳もあるし、玉ねぎ、ベーコン、いや、鶏肉あったっけ……ある……玉子大量にあるな……二人分……グラニュー糖……フライパンでいけるか……はい。セレスタさん紅茶は、飲み終わりましたか。あ、まだいいよ。飲み終わったら、ちょっとお仕事が、あります」

 カジュアルなオックスフォードシャツとジーンズの彼、わたしにとってはそうとしか見えない彼は独り言みたいに喋り続けながらもうキッチンに立って手を動かしていて、フライパンや泡立て器を動かす相変わらずの手際の良さに驚きながら、ふんわりと甘い匂いが漂ったので首を傾げます。これはあとで、とザムザさんは言います。フライパンに入れて蓋をして弱火。

「これは開けちゃダメだからね。開けると大変なことが起きるからね。『浦島太郎』って知ってる? ああ、おれも知ってる。あれはひどい事故だった。ちゃんと箱の蓋に黄色や赤や黒で取説を書くべきだったんだ」

 私は隣で言われた通りに洗い物を手伝い、彼が玉ねぎと鶏肉を小さく刻んでにんにくと一緒に炒める間、彼はきっと余所見をしないので、わたしは喋らずキッチンに並んでいて、野菜と肉の焼ける匂いが夕方の空腹をつついていきます。

 そういうタイプじゃないとおもうとわたしは思いました。“彼は”赤い薔薇を差し出すタイプじゃないし、“彼女も”そうではない。“彼女”について、彼が追ったという長い髪の女性の後ろ姿をわたしは捉えていません。わたしに知らされているのは“彼女”の姿と名前と、帆来くんと旧い仲ということだけでした。

『赤い薔薇はザムザさんのしゅみでしょ』

 と呟いたわたしの言葉は“聞こえなくて”、ケチャップライスが一旦引き揚げられて、あっという間にふわふわの半熟玉子に包まれるのを横で見つめています。

「一品でいいかい。サラダは? いらない。ケチャップ?」

 適当に相槌を打っていると、テーブルの上にはふわふわのオムライスがふたつ並んで、デミグラスソースがかかりました。

「素晴らしい」

 彼の自惚れが聞こえました。

『ザムザさん じぶんのことすきでしょ』

 臆面なく自惚れるところとか、今日はテーブルの上にギンガムチェックのナプキンを敷いてカトラリーをきちんと並べるところとか、ミルクティーを淹れるときには鍋から煮出してシナモンも添えるところとか。
 彼は軽やかに語ります。

「だって些細なことも自分で褒めないとおれのこと誰も褒めやしないだろ。おれはこだわったオムライスを食べるのが好きだし、おれがこだわりオムライスを作れることをおれは毎日誇りに思うよ。
 ファッションもそうだろ? 人は服だけじゃなく鏡に映った自分のことも愛してる。
 ……なんだよその顔〜、テングになるなって言ってんじゃないよ。誇りは持たなきゃ。その上で磨くんだ。君は相当頑張ってる」

 都合上わたしたちは会話のなかで黙り込みやすく、沈黙が訪れて、「ま、食べようよ」と彼が促すので、わたしたちは席について、彼のごはんを食べます。正直言ってレストランで食べるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいとても上手くて、おいしいので、彼はひとりでいてもどんなときも楽しくやれるのだろうと推察します。

「にしても帆来くんは残念だったね。今夜は曇りのち雨で、せっかくのデートも水びたしじゃないか」

 相槌を打つほどでもなかったので、わたしはアイコンタクトを取るふりをして彼を眺めました。
 スプーンで切り取られたオムライスの一口が彼の口内に運ばれて消えるまで。輪郭が見えるぐらい丁寧に見えるようになりたい。目の前にいるふつうの人を想像で補えるように。しかしぼーっと眺めていても顔立ちはいっこうに察せられませんでした。
 いま口に含んでいる分を咀嚼して飲み込んで、お茶で一息入れて、コップをテーブルに戻すトンという軽い音で、彼の気を引きます。

『ほらいくん だいじょうぶかなあ』

 ん? という彼の相槌。

『まだ、ちょうし、わるそう』

「あいつは四六時中調子悪いな」

『そうじゃなくて』

「そうじゃなくて?」

 そうじゃなくて……
 わたしはためらいました。恥ずかしかったんだと思います。ザムザさんはたぶん、そんな恥を抱くことが恥だと分かっているので、達観しています。

『水を吐くのをしらべました。ねこばっかり出てきます』

「じゃあネコなんじゃねえの」

 彼が真面目に取り合ってくれないのは、彼がジョーク好きというのもあるけど、たぶんわたしを心配させたくないから。でもそういう優しさって、悪い意味の子供扱いにとても近い。
 彼がわたしを子供扱いするのは、彼のせいではなくわたしのせいなので、わたしはもっと上手くいろんなことを考えて言えるようになって、子供扱いしないでもいいようになりたい。

 思いついたことを「言う」には恥ずかしく、わたしはいっそ、大きく口を開けてハキハキと、捨てゼリフみたいに叫ぶように伝えました。

『わたしって、どうなの』

 確かにスプーンが立ち止まって、たぶん見つめたのです。見つめたまま、彼は黙ります。沈黙を充満させ、わたしが自白するまでただ待つように。離島の教室みたいでした。親しみやすくて威圧的な良い教師になれそうですね。

 その沈黙はわたしがわたしの非を打ち明けるまで終わらず、話題を変えたり席を外したり、スプーンを再び動かすのはわたしの敗北なのです。よほど気の利いた返しをできない限り勝てる見込みはなく、勝つためには過ぎた沈黙が長過ぎました。別に戦いたくなかったのに喧嘩をふっかけたのはわたしの方だし、気付けば睨んでいました。
 視線の先に表情がないことはいまのわたしには救いだったのかもしれません。

 んん? とおだやかに唸る声で沈黙が解けました。

「冷めるよ。ああ……違う。さめるよ」

 冷めるよ、冷めるよ? 声だけの彼は何度か同じセリフをリテイクしました。

「ああ、こうだ。うん。“さめるよ”」

 やり直しの甲斐はよくわかりませんでした。彼はまた、多分大きく口を開けて自作のオムライスを頬張り、料理の悦に浸るようです。
 彼の存在を保証するのは彼しかいません。彼の営みを褒めて支えるのは彼だけです。よほど孤独なのです。そうわかっているけど空元気にしては彼はいつでも達観していて楽しそうにしています。わたしが知らないだけで夜毎枕を濡らしてるのかもしれないけど、まあ、想像はできません。

『じゃあ、じゃあザムザさんは、どうなんですか』

「いやぁ……?」もぐもぐしながら答えるのは三枚目っぽいです。口に含んだ分を飲み込んで、あいまいながら神妙に言います。

「その質問には懸賞金がかかっている」

 でもわたしが考え込んだそばから暗い響きを自分で打ち消して、

「いーや、嘘です。はい。元ネタは秘密ね。すると今夜は『徹底暴露! 謎多き二枚目お料理男子、隠された素顔に迫る!』ってところにしようか?」

 わたしはあいまいに笑い返します。

「でもその番組はスポンサーもディレクターも雲隠れしてしまったから、絵コンテの一枚も上がらないうちにお蔵入りなんだ。原作はまあ、どこのブックオフにも売ってるよ。でも本当は番組のノベライズがあった。映像の制作と同時進行の企画だったんだ。本の方はどうにか手に入るんだけど、手に入っても何やかんやで読めないんだ。そういう仕様になっている。例えば、黒い本に黒い文字で書かれている」

『ページが透明だったり?』

「あり得るね。いっそ、なんにもない場所に値札がついてんだ。本当になんにもないのにね。『これが本です』」

『サギですね』

「ま、印税はおれには入らないから」

 一言一言に深い満足を伴い、彼は自己肯定感のままに立っているようでした。誰も見ていなくても彼はきっと自信を失わないのでしょう。

「そうか」

 改めてひとりごちたあと、彼は目を閉じて感慨深く笑んだような気がします。
 わたしの思い描けるなかでもっとも楽観的な筋書きに沿って彼は表情を鮮やかに変えます。

「セレスタ。今夜はおれの話をしよう」

 

 花屋の店頭を眺めて、何も買わなかった。深いオレンジ色のガーベラの小さな花束が目についたが、花の見頃の短さを鑑みて、見送った。電車に乗ってから、僕が花を好まなくてもでも彼女は好きかもしれないと思い至って、疲れてしまった。車両は空いていて、座ることができた。本も何も持参しなかったので、目的のない暇な時間が訪れる。向かいに座る人々は全員俯いて端末を操作している。窓の外には色を失い始めた暗い曇り空が広がる。降りそうな兆しに気付き、傘を持っていないことにも気付く。これでよかったのだろうかと内省する。これでよかったのかと頭の中で思い浮かべる文に於いて「これ」は何も差していない。
 振り向くように真横を向いて背後に流れる風景を追った。高架の下を住宅が走る。気に入りの給水塔の姿が見えて少し安堵する。同じ風景を忘れずに見続けられるのは恐らく良いことだ。
 何も考えず座っているうちにうたた寝をしてしまい、気付けば新宿に着いている。指定された場所は西新宿の都庁前だった。約束の時刻よりもかなり早く駅に着いてしまったため、ゆっくりと歩いていると、前方に彼女らしき後ろ姿が現れた。長い髪。追いかけるには距離があった。少し早足になるべきか迷い始めた丁度その時、誰かが僕を引き止めた。振り返ると彼女が深い紺色のワンピースに白い上着を羽織っている。前方を見遣るが、追っていた後ろ姿は消えていた。

「いま、似た人がいた」
「“似た人”でしょ?」

 本人が首を傾げて囁く。長い髪が垂れる。最後に見た時から髪の長さも変わってなく、しかし正確なその長さを僕が覚えている筈もない。黒髪と眼は、最後に会った時に似ている。
 先を行く影がどんな服装をしていたか思い出せない。高橋塔子は既にこの場に合流しており、

「早く着いちゃったから待ち合わせ場所の下見にでも行こうと思って。そしたら見つけたから」
「どんなふうに?」
「どんなふうって」
「見つけ方が」

 彼女は失笑した。

「あなたは、なんというか、すうっと歩いてくるの。背筋がきれいだし、急いでないのに意外と歩くのが早いから、人混みのなかに紛れていてもスピード感がすこし違う」
「それは、見た目に依拠しますか。……例えば、僕が、茶髪で現れたら、貴女は分かりますか」

 やはり彼女は笑って、僕達は歩行した。

「分からないかも」喧騒に打ち消されないよう彼女は声を上げた。「びっくりしちゃう」
 ざわめきと靴音に遮られて僕は声を上げられない。なぜ茶髪だったらなどと考えたのかといえば、何に依拠して僕が僕と思われるのか、僕を知る彼女に問いたくなったからだが、なぜ茶髪というモチーフが現れたのか、誰かが、例えば僕がある朝目覚めると。
 音のくぐもる地下を抜け、通りに出る頃には、暮れた雲が青かった。

「前にパパに連れて行って貰ったの。祐基(ゆうき)の十歳のお祝いと、私の留学の送迎会で、パパとママと祐基で」
「彼は今、何歳」
「まだ、小六。複雑よ、歳の離れた姉弟って。私なんて祐基の生まれた時にはもう、手間のかからない歳だったから大らかでいられたけれど、歳の離れた上のきょうだいがいるって、下の子にはどんな気持ちなんだろう」

 都庁の向かいのビルディングのフレンチレストランに彼女はディナーのコースを予約していた。窓際の席に通される。

「気持ちは分かるんですか」

 黒い曇り空が淀んでいる。眼下の街が重い橙色の靄と滲む。トンネルのなかの橙色の照明が苦手だった。白色光は清浄に思えたが、橙の光は大気の汚れを吸着したように感じられて、ひどく息苦しく思えて、今でも、そういう色の光は苦手だった。

「気持ち? どうなのかな、男の子だし。でもなるべく、少なくともママよりは理解者でいるように、いられるように努めてるつもり。少し年上の人の存在って、子供に大きな良い影響を与えると思うんだよね。友達と親の間の人。親戚のおじさん・おばさんとか……私なんて彼にとってはおばさんだと思う」

 最初のワインが運ばれる。一切のなりゆきは彼女に任せる。
 店内がすこし薄暗いのは夜景を損なわないためだと気付く。天井から釣り下がる等間隔の間接照明が窓に反射し、虚空へと均等に伸びて伝わっていき、僕と彼女の姿が倍に映る。

「おつかれさま」

 彼女がグラスを掲げる。

「いや」

 と僕は再び窓の外に視線を逃す。仮想の床を地上50階の外へと延長し、僕らが浮かぶ。
 飛行機が点滅する。暗い髪の色が、空よりも黒々とガラスに映り込み、飛行機は彼女の頭の中を貫通しようとする。
 いつも、上ずったようにろくなことが言えない。

「貴女に……おかえりなさい」

 グラスを掲げた。まだ窓の外の彼女を見つめる僕を、窓の向こうの彼女と僕が見つめ返す。

 

 C駅地下の小さなCDレンタル屋で物色していると、Jロックのトの棚へ伸ばした手がちょうど他人の指先に触れた。同じ物を手に取ってしまった気恥ずかしさで会釈し、相手を見上げると、相手も同じく僕を見て、そこで何かが引っかかり、僕が気付くよりも彼の回転は早く、とっさに名前が出かかった。でも思い出しきれていなかった。「ああ、あの」と喉に詰まっている。僕の名前がややこしいからだ。僕もまた、相手の声や挙動を確認してやっと確信したからフィフティ・フィフティだった。

「ホズミですよ」

「そう、夏生くんだ」

 その、ふわっとした髪のカジュアルでおしゃれな男は私服の高田巡査だった。巡査はマネキンみたいに模範的で一切ほころびのないファッションだった。休日のための幸福な正装という感じがした。格好のせいもあり、休日というのもあり、以前よりも物腰が柔らかい。

「君が先だった」巡査は僕にアルバム『141016』を手渡した。

「あ、いや、いいんですよ」僕は断る。

「いいよ。遠慮なんて」

「持ってるんです。ただ、あるなあと思って手に取っただけで」

「Drive聴くんだ。僕の世代よりもちょっと古いよ」

「なんか、好きで、好きなんですよ。僕はあのころの感じ、90年代の終わりからゼロ年代のはじめがすごい好きで、でもこのひとたちが一番最高で」

「わかる」

 僕の嗜好への「わかる」ではなく、円滑な会話のための同調でもなく、誰にでも愛すべきこだわりはあるよな、という「わかる」なのだろう。批評家的な嫌味はなかった。
 裏に隠した大切な好みをちょっと撫でられて褒められると、人は弱い。すぐに気を許してしまう。「○○好きに悪い人はいない」と、かんたんな区別で相手を無条件に褒めたくなってしまうのも仕方がない。

「俺もね。最近聴き返したら、急にDay Dreamが良くなって、ずいぶん前に借りたっきりで、全然聴いてなかったのに。それで他のを探しに来た。『汀線』は観た?」

 僕は知らなかった。アルバム『Soundescape(サウンデスケープ)』収録曲をエンディングに起用した日本映画らしい。一昔前の作品かと思ったら、今年の新作である。

「あれに俺の知り合いが出演してる。観に行ったらエンディングで『魚のヒロイン』が流れて、懐かしくなってアルバムを聴き返した。でも映ってた筈の知り合いのは見つけられなかったんだよね」

「すごいですね、俳優なんですか?」

「いや」巡査はためらっていた。「実はよく分からない。しばらくの間、五年ぐらい、顔を見合わせていなかった」

 土曜の夕方、一人暮らしの高田氏は食事を取って帰るようだった。「どう?」と僕を誘った。「奢るよ」。まあ、これも経験か、と、きまぐれに僕は着いて行った。

「どこがいいかな。ファミレス?」

「いや、僕、ファミレスはあんまり」

 というのもバイト先がファミレスだから、非番の日は極力向かいたくなかった。高田氏は少し考えて、駅の裏手に僕を案内する。

 C駅周辺は閑静なニュータウンで、街並みはその誕生から都市計画者によって整備され、常に子供やファミリーの通行を想定した一定の清潔感を保っている。駅前からデパートへ続く通りは大きなレンガ橋になっていて、空を遮るものはない。一方で駅の裏手は駅舎の日陰になっていて、高架下の細道に居酒屋が集まり客引きがたむろす、自然発生的な飲み屋街だった。

 高田氏は雑居ビルの地下1階の創作和食居酒屋に僕を案内した。未成年者の僕は少しどぎまぎして席についた。薄暗い照明の店内の四人掛け個室席は、ふだんファミレスの明るい店内に立つ僕には物珍しく目に映った。
 奢りというので、僕はたいして希望せず、高田氏の好みに合わせた。ジョッキ生、コーラ、ゴーヤチャンプル、焼き鳥の盛合せ、だし巻き玉子、鉄板オムそば。

「ふだん、居酒屋ってあんまり行かないんだよね。だいたい兄貴と来るんだけど。俺は大学行かなかったからなあ。高校の友達なんて、大学入ると離れる一方で……現役高校生に言う話ではないな」

「そんなもんだと思ってました」

「冷めてるな」

「だってたった三年間ですよ」

「最も希少な三年間だ。ほどほどの自主性のなかで誰からも尊重される自由を謳歌できる」

「それ、少年犯罪のこと考えてたりしますか」

 大皿のゴーヤチャンプルを取り分けた。高田氏は乾いた笑い方をする。ハハハと言う一音一音がはっきりしている。

「四六時中そんなこと考えちゃいないよ。だっていつだって『おまわりさん』でいるんじゃない。そしたらネットなんてしてないだろ?」

 聞き役に徹することに決めた僕は「なんで警察官になったんですか?」と問う。「進路相談かよ」と高田氏は笑う。

「公務員を考えてた。警察か消防だなって。で、消防よりも警察の方が俺は好きだった。べつに命を救われたようなドラマチックなエピソードはない。
 あとはまあ、なんだ、環境を変えたかった」そう続けるまでに氏はビールを一口含んだ。

 チャンプルもオムそばもコーラも辛い油で湿った味がした。団体が入店したのか、個室を遮るすだれの向こうがガヤガヤと騒ぎはじめる。

「高校生なんて面倒なものだ。狭いくせに、その人間関係だけを世界みたいに捉えて、視野も行動も限られている。……最近思うことがあってね。知ろうとすればするほど、外に出たと思っていた筈の世界も閉じていくような気がするし、求めてた筈のものの薄っぺらさに気付いてしまったような、俺が変わってっちゃったような……。
 ある怪談があって。ネットで。シリーズもので、数レスかけて掲示板に不定期に投稿していく短編集仕立てになってて、まあ拙い文章なんだけど、怖い話としては満足な分量があって、本当かどうかは怪しいけど民俗学的な小ネタもあって、まあ高校生の俺には楽しめたんだよ。なかには未完のエピソードもあったし、匿名掲示板だから二次創作とか贋作とかも混ざってる。ジャンクだろ、俺はその、ないまぜになった不詳の感じを面白がってたんだと思う。そりゃまあ、どう考えてもフィクションなんだけどさ、まだ留保されてるんだ。『この物語はフィクションです』って断言がなくて、投稿者名にトリップ……投稿者が本人であることを保証するパスワードはついてたから、たしかにひとりの作者がいる作り話だったんだけど、ギリギリで誰の著作物でもないような気がしてた。話はコピペで拡散されて、有志が勝手におのおののホームページにまとめてた。誰の所有物でもない漫然とした状態に、俺も触れていいっていうのが、良かったんだろう。
 そしたらさ、ちょっと前に、それ『書籍化』しますって。『未完のエピソードの完全版を収録します』って、カバーに登場人物のイラストがあって……怪談はスレ主の体験談って設定で投稿されてたから、つまり、スレ主たち本人がキャラ化されて載ってんだよ。
 俺はあの話が好きだった。 エンタメとしてさ。けどさ、本になるって決まった瞬間、大げさに言うと失望したんだ。キャラ絵なんてイメージだとしても見たくなかったし、本になったことで誰の権利物なのか、どこにカネが発生するのか明確になっちまった。
 カネを払いたくないってんじゃないよ。そうじゃなくて、形あるものに変わってしまうと、……仮に実写化にしてもそうだけど、どんなメディアでもパッケージ化されると利権と責任者が発生する。
 俺は怪談を読みたいんじゃなく、誰の所有物でもなく語られ続けた集合知のなかにいたかったんだと思う。そういう不明瞭なものって、つまり、高校生の俺が暮らしてた世界にはなかなか無いものだし、数少ないその発露の例が、ネットのなかのエピソードだとか、怪談や都市伝説だったんだろう。
 俺もさ、いつかは、詠み人知らずの“名作”のなかに加わりたかったんだよ。“名作”に俺も加担したかった。瞬間の盛り上がりに加担して、みんなの共有財産のなかに一言だけでも参加したかった。
 ……って思ってたんだけど、最近それも冷めた。というか、変わった。
 よく喋るなあって思ってるだろ? 酒の魔力だよ、そのうち分かるようになる。今は遠く思えるだろうけど二十歳なんてあっという間さ。堰を切りたくなる時には、酒で頭を浸すんだよ。高揚感が背中を押してくれるような気がして、口が回る。
 人は話を聞いてほしいんじゃなく、ただ口にしたいだけなのかも知れない。その場の発露で、本当は何もかも満足して、記録と伝達なんて市民には興味がないのかも。だからメールや掲示板やらでユーザーは壁打ちしてたけど、その後はもっと即時的でログの残らないタイムラインが台頭している。頭の中に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き綴れば……って。かくいう俺はそういう雑文を読み漁ってきたんだけど。
 書こうと思ったことも何度かあるんだけどね。細部をぼかして変形させて、いつか誰かに聞いてほしい話があった。いつかどっかに投稿しようと思ってた。でもチラシの裏だし、これは、残らない方がいいんだろう。まだ、旧校舎だったころの話なんだけど。

 

 苗字順で高橋塔子と前後の席に配置された。少し無理をして、目標偏差値よりも高い高校に滑り込んでみると、級友たちは中学時代では信じられないほど良識的な人間だった。少年少女の間のくだらない意地、例えば性別の違いや器量の大小は、偏差値が約束する合理性に払拭され、高校では自治が保たれていた。彼女が性差をものともせず俺に話しかけたことは、当時の俺には印象的としか言えない体験だった。大人になった今平静に思えばあまりに当たり前のことだったとしても。学校という閉鎖環境に放り込まれて、少年少女は自ずとルールを規定して、生み出したルールに自縄自縛される。男はこうしなきゃいけない。女はこうでなきゃいけない。高校生には男女関係があり、恋を知らなければいけない。

 当時の彼女の聡明さも、高校生の範疇に留まり、思えば高が知れていた。彼女だってルールに甘んじていた。ルールと言って色恋について触れたが、それは色恋に限らず、高校生らしいふるまいすべてが、ルールとなった。ロールでもあった。
 彼女はルールもロールも弁えていた。良い配役を宛てがわれていたとも言い換えられる。
 彼女は俺に語りかけ、出身地の話を交わした。

「ほらい、きよたかって、知ってる? 船の帆が来るって書いて」

 同じ中学校の出身だったから、その名前は知っていた。名前が珍しいから俺が一方的に覚えていただけで、クラスも違い、交友はなかった。
 彼もまたここに進学し、我々と同じクラスになった。

「汐孝」

 俺を連れて高橋塔子は彼に呼びかけた。帆来汐孝は線の細い内気な人物で、塔子とは逆に、俺とも逆に、人の作ったルールのすべてに無関心を貫いていた。

 久々に出会って帆来汐孝は塔子と呼ぶのをためらった。幼少の頃は名前で呼び合っていたのだった。遠慮して「高橋さん」と呼ぶのを、「塔子でいいよ」と彼女はいさめた。そのついでというか余波を受けて、俺も彼女を塔子と呼びはじめる。

 塔子は、明晰で快活な気質だった。小さな劇団で演技を学んでいたためか、人前で物怖じせず、すらりとしたしなやかな背筋で、堂々と自立していた。大概の人の輪に好かれ、友達関係で引っ張りだこになっていたが、誰にも呼ばれなければ汐孝のそばに戻った。俺はと言えば、そういう出会いによって、高校に入って最初の友達が帆来汐孝ということになった。高橋塔子を介して、俺は彼の男友達というロールに抜擢された。でも俺たちにも中学の卒業という縁があるから、友達になれる所以はあった。出身中学からは俺と彼しかこの高校に進学しなかったので、心細さにも後押され、友情に溶け込むのは早かった。

 半年経ったころには俺たちは三人組で扱われた。男勝りなぐらいに聡明な(しかし、生徒会などの重役への就任は周到に避けていた)高橋塔子と、内向的で思慮深い帆来汐孝と、俺は、大抵の昼休みを共に過ごした。二人とも、俺が出会ったことのないタイプの、理性的な人間だった。仲良くできたのは話題が合ったからではなく、気が合ったということだろう。

 二人の父親は同業の建築家で、切磋琢磨し合う同期で、同じ頃にそれぞれ結婚し、同い年の子供を授かった。男の子と女の子だった。「だから双子みたいなものなの」と塔子は語った。俺は深く納得しなかったけど、上辺だけ同意して頷いた。

「深い友達なんだ」俺はそう結論づけた。

「そう」塔子はそう思っていた。

 高橋塔子は清楚だ。顔立ちはずば抜けて華やかというわけではないが、普遍的な清涼感があって好まれた。あるとき親しくない男子生徒から好意を寄せられて、断らなくてはならない日が訪れた。俺はことの顛末を聞いた。

「帆来は違うのか」それが率直な感想だったし、俺もそう思い込んでいたが、彼女は頭を振った。

「付き合うには親しすぎるの」

「双子だから?」

 彼女は笑う。「そうなんじゃないの? たぶん知りすぎて、今更なんじゃないかなあ。早く出会い過ぎたからそういう『好き』を使い果たしてるの。好きってことが安定してるけど、これからドキドキすることはないかな」

 塔子はそれを新規性と呼んだ。
 幼い頃を知っていると関係は幼いままだ。成長してから出会うことで、装い新たに年相当の人間関係を築けるのではないか。

「でも高校で再会して、変わったこともあっただろ」

「でも、変わんなかったことの方が目立つの。彼はね」

「俺は新しいかな」

「敬司は頭がいいから」

 そんな成り行きで、俺と高橋が付き合いはじめた。口約束を結んでも、そんな気はまるでしなかった。

 教室内での温度や、友達間の態度が変わったことはなく、三人組は三人組のまま昼食を共にし、予定が合えば一緒に登下校した。最寄り駅が一緒なので、帆来と同行する日が多かった。電車のなかで彼はたいがい読書をして時間をつぶし、俺は音楽を聴いて、隣に座っていたが会話は少なかった。そうやって過ごしながら、塔子から俺宛にメールが届き、帆来の隣で俺が塔子に返事を打っていると、不思議な気分になる。俺は帆来と真逆だから、新しいのかなと思った。

 塔子がどこそこに行きたいと言う。物珍しいから俺も同意する。すると結局二人で行かずに自ずと汐孝も誘おうという話になって、帆来もなんとなく同意するので、三人揃って遊びに行く。デートらしいデートの経験はなかった。恋人であることは肩書き以外に何の利害も生まなかった。肩書きでしかないのであればそれはステータスの機能を果たさなかった。だから一切は生まれなかった。

 美術館と水族館に行ったのを覚えている。水族館はさておき、美術館なんて、高校生にしてはハイソな休日だった。塔子の親が何かとチケットを調達するのだ。娘と、娘の友達に十分な教養を注ごうとしていた。特に帆来に対しては、息子に接するように親身な態度だった。
 塔子の家である3LDKのマンションの廊下には、両親の所蔵の洋書が洒落た感じで床に積まれて、ダイニングテーブルには明るい紫色の花が生けてあった。白いカーテンがベランダからの微風をふんわりと飾る。来訪した男子高校生たちに白いティーカップでアールグレイティーを差し出す家だった。

 シュールレアリスムの展覧会を観に行った。時計が溶けているダリの絵は俺でも知っていた。悪趣味で、気持ちの悪いものをわざと描いた、ふざけた絵だと思っていたが、説明書きを読むとかなり真面目な取り組みだったようだ。美しければ良しとされた普通の風景画なんかよりも理論的に批判を構築した結果、怪奇な表現にたどり着いたようだった。

 塔子はパイプの絵を気に入った。シャーロック・ホームズが口に咥えているようなリアルなパイプたばこを描いた絵だった。絵の上に書かれたフランス語の一文は、翻訳すれば『これはパイプではない』という意味であると解説がある。

「これは絵だから、パイプっていう実用品じゃない。絵に描かれたものはもう、描かれたそのものじゃなく、絵でしょ。だから、風景画を買っても、別に風景を支配できるわけじゃないの」

 昔々、写真がない時代、絵画は絵ではなく、別世界に開かれた窓だった。たとえば宗教と神話の世界を描いた絵はただの絵ではなく、額縁の向こう側には本物の神の世界が広がっているとされた。宗教の支配から王政の時代になって、絵画は権力者の肖像画という記録媒体になった。絵が絵として味わわれることはなく、絵は本物の神話世界・為政者・土地を引用するための窓だった。その後写真術の登場で、「本物の代用品」として用いられてきた絵は役目を終えて、「純粋な絵」として固有に自立したが、絵を見ている人はいまだに「絵」を紙や布で出来た物質とは思わず、描かれている人や風景を見て、きれいだなどと感想を言う。風景画を見るときに、見出されているのは絵ではなくモデルになった風景のイデアだ。風景画を部屋に飾ると、あたかもその風景を手中に入れたように満ち足りる。それは窓ではなく、窓の向こうに世界は広がらず、絵は空間ではなく平坦な紙か布か板の表面だというのに。

 そんなことを書いた書物が塔子の父の蔵書にあったそうである。

「そっか」

 納得以上の感想がなかった。語られているものごとのなかに俺はいなかった。

 水族館の方が無邪気に楽しい思い出として記憶に残っている。これも三人で行った。カップルばかりで、三人揃ってうんざりしたが、俺達は何なのか、誰も俺達自身に教えてはくれなかった。イルカショーが面白かったと、子供じみた感想を抱いたが、本当に面白かった。哺乳類の巨体が水しぶきを立てて身の丈よりもはるか高くをジャンプしているさまは、重力に打ち勝つような興奮を覚えた。体は泳ぐための流線型で、筋肉は游泳に特化して強靭だった。力を溜めた巨体が跳躍すると、水槽の上、青空の下に、うつくしい曲線によるスピンが尾を引き、背景の海は青くトンビが舞って、だんだんと、むしろ、かれは泳ぐためではなく空を飛ぶために生まれたのではないかと、夢想しながら、子供たちや家族たちのおおーという間の抜けた感嘆が客席を包むので、僕らも気にせず、イルカが跳ぶたびに声を上げて、感想が未整理のまま口をついて出た。

「カッコイイな」と敬司くんは興奮して語った。
「すごい」塔子さんも嘆息していた。「イルカショーなんて子供だましだと思ってた」

 爽やかな陽気だった。創立記念日を利用して僕達は海辺に遊びに行った。

 生き物たちが水槽のなかで呼吸をしていた。泳いで、身を翻した。小さな魚と大きなイルカに挟まれて、人間のスケールを思い出すとめまいがした。低い耳鳴りのような館内BGMの下で、暗い光と青い水槽の前で、頭上を過ぎる生き物たちの白い腹を見ている。海底を疑似的に呼び覚ますありえない風景に、海抜が分からなくなる。意識が潜水する。二人とはぐれたと、思ったが、先の順路に進んでいた。こういう風景に覚えがあった。髪の長い女性が男性を連れて先に行ってしまう風景。その風景には必ずおなじ感情が伴っている。僕は二人が去るのを惜しむ気持ちでいるが、僕には止められないという、もどかしさも、記憶している。いつもそれがはじめてではないが、はじめてのきっかけは思い出せず、その日の水族館もはじめてではなかった。思い出そうとしてふと大水槽を振り返り見ると、頭上をアカエイが横切り、外敵のない大いなる遊泳を見上げているうちに、泳ぎ疲れた後のように腹の底が鳴って、気管がむせ返って咳の発作が出た。口を抑えて咳き込むと手とシャツが濡れ、飲み物を溢したような気分になった。手を濡らした液体が自分の口から出たものだとしばらくは気付けなかった。

 二人は深海のエリアでユノハナガニを眺め、丁度生物の講義で習ったばかりの熱水噴出口の風景を知った。水圧で圧縮されたカップラーメンの容器を見た。オオグソクムシの生体を見た。画素の荒い携帯電話のカメラは、薄暗いなかで蠢く生物の撮影に適していない。

 通路左手の小部屋には複数種のクラゲが展示されている。正面のひときわ大きな水槽の中身は青や紅にライトアップされ、乳白色の丸い群れは水槽のなかでゆっくりと攪拌されて、照明の変化によって低速の万華鏡のように姿を変える。時の流れがゆるやかになった。時間が水の抵抗を受けているようだ。

 二人はその少し離れたところにある水槽の名前を読み上げた。

「タコクラゲ」
「どっちだよ」
「クラゲなんだよ」

 直径5cmの半球に先分かれした脚がついている。半球は水玉模様の薄橙色で、それを一生懸命に拍動させて推進力を得て泳いでいた。

「かわいい」と訪れた女性たちが囃した。女はすぐにかわいいと言った。彼女も御多分に洩れない。確かに、健気な小動物だった。

「俺は気持ち悪いな」

 順路を行く。今度は長い髪の毛のような触手が水の中に糸を引いている。先のタコクラゲのように積極的な拍動は見せず、水の流れに身を委ねきって流されて、時々思い出したように一掻きだけ拍動し、その一歩の分だけ浮上するが、また水の流れに任せて沈殿する。得体の知れない姿におそれを抱いた。顔の無い生物は恐ろしい。およそ意思どころか野生も感じられない生き物だが、これでいて有毒で、強い神経毒をもち、死亡例も報告されていた。夏のニュースで海水浴客がクラゲの被害にあった報告を例年放映しているのを、すぐには思い出せなかったが理解には結びついていた。

 複数の個体を同じ水槽に入れると、長い触手は絡まって結び目になってしまった。おのおのが別方向に流されるせいで、結び目はいっそう固く幾重にもねじれて、ちぎれた触手が水中を舞った。女の長い髪がもつれて痛む様子。縺れながらもどかしくも自滅に向かう生き物に苛立ちがつのった。けれど、透明な壁に隔てられているうえ、その脆さと猛毒のために解いてやることは叶わない。橙色の分厚いゼリーは花にも魚にも動物にも似ていない固有の半透明色だった。かさの縁から十二方に伸ばした朱色の触手の根元は肉厚で、拍動のたびにダイナミックに波打った。かさの中心からは茸の柄のように太く白い芯が生え、それはフリルのようにたなびきながら枝分かれして触手とともに糸を引いている。

「汐孝は?」

 その水槽の前につっ立っていた。

 ひんやりした水の温度が水槽の並ぶ一室を冷やした。それは皮膚感覚の冷たさのみならず、イメージの上での冷ややかさだった。水温の冷ややかさ。照明の冷ややかさ。研究機関の冷ややかさ。心象の体温を奪う冷ややかさだった。

 白い指先でアクリルガラスの表皮をなぞる。ゼリー状の生物の曲面が彼に応じる。それは彼の額と鼻筋の形を思わせる。

「汐孝」

 ベンチに座っていた塔子が呼びかけた。

 その後、砂州に架けた橋を渡って島の方へ歩いていき、観光地にあたる参道を登って、島の頂上の展望台のチケットを買った。塔子と帆来は島の急坂にバテていた。励まして、展望台に登り、戸外の空間に出ると、風は涼しく、トンビとカモメが頭上すぐそばを舞った。薄灰色の砂浜が相模湾沿いに視界のはてまで延々と連なった。太平洋側から振り返り見た海岸線の入江と岬の輪郭は、確かに地図上の日本列島の一部をなしていた。海の方は薄もやがかかって、水平線は不明瞭だった。雲は白い引っ掻き傷のように、天頂から水平線に向かって弧を描いていた。日差しに西日の銅色が混ざり始める時刻で、青空と金色は相反して、空と海とが濁りながら金属色に眩しく反射した。二人は隣り合って海を眺めた。二人は殆どお揃いの、スカートであるかズボンであるかしか差異のない白と紺の服をまとっていた。

 銅の光が網膜を焼き、皮膚をゆるやかに火傷させた。傷口に塩を塗るかのような海風、細く長い彼女の髪が向かい風に暴れてはためいた 。

 携帯電話を取り出して、スピーカーを指の腹で塞いで、シャッター音を隠して写真を撮った。そんなことをしなくても、辺りは写真を撮る人ばかりだったし、風が絶えず音を吹き流した。

 逆光の二人のシルエット写真。QVGA規格の隠し撮りは、携帯端末の画面解像度の毎年の技術刷新のふるいに掛けられ、いつしか無用の長物の低画素とみなされ、バックアップもなく端末のメモリの底に埋もれた。端末の買い換えと執着心の喪失はちょうど同時の出来事だった。

 だから、何世代も後の端末から、彼女の方から、俺に宛てて、メールが届くなど思わなかった。

 

From:TAKAHASHI To-ko

お久しぶりです。
お元気でしたか。
私は先日帰国しました。
しばらくは東京にいるつもりです。
謝りたいことがあります。
もしご都合がよろしければ、お会いできませんか。
よろしくお願いします。

 

「式には呼んでくれよ?」

 彼女は口元だけあいまいに笑う。

 

 学園祭の日、舞台の女優を照らす二台のスポットライトのうち、上手の係が不意に卒倒した。意識を取り戻さないその男子生徒は口の端からとくとくと真水を溢した。

「汐孝」

 女優が第四の壁を破って叫んだ。
 舞台下手のスポットライトは、舞台を降りて駆け寄る女優を捉え続けた。

「汐孝……」

 高校生の大根役者たちのなかで彼女だけが本物の芸術家だった。観客の視線の行方を知る毅然とした姿勢だった。筋書きに内在する余韻に対して正確に声を震わせた。それが悲しいと分かる声だった。

 救急車のサイレンが上演中の物語を別(わか)った。

 医師は詳しい病状を知らせなかった。家族の方にしかお話しできません。なぜなら、病と健康も個人情報に含まれるご時世だった。
 男子生徒の母は実家に静養し、父は全国の都市を点々としていた。
 下手のスポットライトを操る生徒に、女優は、契約の終わりを切り出した。

「どうして」いままで手も繋いだことのない仲だ。いままでの交際関係に意味がなければ、破局にも実効性はない。

「だって、私が彼についてなきゃ」

 彼は、彼女がヒスを起こすような「女」だったことに落胆した。彼にとってはヒスでしかなかったが、彼女は腹の底を固めていた。高校生の頃はただのショックによる盲信だった彼女の覚悟は、大人になってからいよいよ冷徹な本物になる。しかし当時の決意を「恋人」に伝えることは失敗した。恋人の反発は想定していたが、用意していた反論は互いの感情をケアしてくれなかった。幼かったのだ。高校生の規範やあるべきとされる姿から逃れられなかったし、あるべき以外の姿を学ぶ機会も見つけることができなかった。

「結婚すれば彼を守れる。法的に彼に付き添える」

「口だけの関係じゃないか」口約束の恋人は言った。

「そう、文字の上だけの利害関係なの、法の庇護を受けたいだけ。家庭なんていらない。私が、女でしょう。そしたら男の彼と契約ができる」

「思い込みもいい加減にしろよ。あいつがもし女に生まれてたら? 俺に、結婚してやってくれってすがったのかよ」

 彼は本当はこう言いたかった。「俺たち」じゃあ駄目なのかよ。どうして彼女は退路を断つような真似をするのか。友達として、もっと広い目で、広い仲で支えることもできるんじゃないか。しかし高校生の彼もヒスを兆していた。二人きりですべき会話ではなかった。蓄積された疑心が堰を切る。最奥にあったのは、疎外感。

「やめて」

 顔を近づける。親愛の情を所有欲が押しのける。どれだけ力の差があっても、心のなかでマウンティングしても、満たされることはなく、勝てないと分かっていた。

「守ろうとしていた。口約束だとしても、約束には変わんないだろ。俺はきみを特別視して、楽しませたいと思って、人並みに守ろうと」

「守るなんて言わないで!」

 少女の泣きそうな姿に少年は胸を打たれた。取り返しのつかない方向に二人で歩みを進めることも、創造の喜びの異なる現れ方のひとつだった。きみのことを傷つけたくはないが、きみと傷つけ合うこの時間は二人の営みだ。

「俺はきみが好きなんだよ」

 たとえ、知らない男に言い寄られたときの逃げ口に使われる恋人関係でも、手も繋いだこともない仲でも、一切の実効性のないただの肩書きに彼は愛着を抱いていた。
 でも相手は女優なのだ。いつだって最適なロールに自分を整形することができるし、ロールを着こむのと同じように脱ぎ捨てることにもためらいがない。
 彼女が俺を何らかの特別な役割に仕立てたことが嬉しかった。高等教育の場で、生まれに関係なく人々は対話によって絆を築くことができるのだと、平等の夢を信じた少年は、きょうそれを裏切られた。明朗で快活な彼女も、結局は女で、幼馴染を選ぶんだ。
 きみは、彼にとっての救世主のロールを選ぶのか。俺も彼の友達なのに。

 腹の底にドライアイスの小さな塊が落ちたようだった。以降、言葉の端々から白い冷気が漂う。

「それじゃ、俺にとってきみはただのお友達になったってことだ」

「敬司、ごめん、傷つけたかったんじゃない」

「いいよ。彼の回復が優先だ。そうだろ? その方がいい」

 

 大事には至らなかった。目覚めてから数日静養し、退院した。
 朝の教室に現れた彼の顔を見ると少し気持ちが晴れた。生きている。歩いている。

「よ、おはよう」

 心配させないよう軽い調子で声を掛けた。ノートを写す? 課題も手伝う。そんな親切に対してはにかむように微笑んで頷く、思慮深くておだやかな友達の姿は、見つけることができなかった。彼は目も合わせられない。申し訳なさでも感じているのだろうか。
 彼の前の席に腰掛けた。“いいって。友達だろ?”と、いつもの許し合う態度でいた。理性と言論に統治されたなら、人々は平等で、心の伝達は遅滞も抵抗もなく分かり合えるはずだ。

 伝えたはずの思いやりは打ち寄せる白波にかき消された。

 一度意識を失った彼には、相手の言葉は口の端から泡が立ち上るようにしか見えなかった。言葉に意味が伴わず、目に見える人々はひどく不自然に隔たれて遠かった。存在が遠い。二足歩行と言語を使用するには早すぎた。

 そういう問題じゃないんだ、と、親切心をはねのける、喉元まで出かかった冷酷な言葉は抑えられたが、彼が、顔を背けてしまったことが決定的だった。怯んだ弱い表情が一瞬伺えた。それは友達に対する態度ではない。
 この高校でなかったら怒鳴りながら胸倉を掴んでいた。血の上った少年が、変わり果てたかつての友達の肩に手を置き、微笑みかけるのに留まったのは、高等教育の賜物といえる。
 言わなくても分かる関係のような、美しい友情を夢見ていた。幻だったと分かった。

「何があったんだ?」

 問いに、かつての親友はいっさい応えない。
 その皮膚の下に誰がいるんだ? ゾンビみたいだ。熱病かなにかで人間らしさが焼き切れてしまったように思えた。同じ姿をしていても変わってしまった。不可逆的に。

 友達は失われ、女はお嫁さんになり、俺は結婚式を彩る無名のお客さんか?

「汐孝」

 だから、二人は俺を除け者にして幸福に、不幸になるのだろう。

「おい」

 こうやって悲劇と美談が成立する。俺も悲劇か? 恋愛と友情の天秤に軽んじられたKは現代文の教科書の例文に担ぎ上げられるって? 奇病で人が変わった友達は奇妙な体験談のログに埋もれて、献身的な介護を続けた妻は驚きの実話の再現ビデオの演目に編纂されるのか?

「汐孝」

 そんなんじゃねえだろ。

 

 同じ景色を見ようとして、目の高さを合わせてみたり、片目を瞑ったり、立ち位置を取っ替え引っ替えして、いつも落ち着きなくきょろきょろしていた。

 見えたものは一致せず、どころか「見える」という意味は目の持ち主によって定義を変えた。互いの視力や目の高さを互いの感覚で相談しながら、ああでもないこうでもないと手探りして近づけ合うよりも、はじめから、生まれたときから誰もが同じ辞書を用いて同じ言葉を覚えていく方が、同じ景色を見るためには遥かに簡単な方法だった。問題は、参照されるのが目の前の現実ではなく互いの手中の辞書になる点だった。仮に辞書が間違っていたら、せっかくのスムーズな伝達手段はもとの暗闇の手探りのなかに帰る。二者の辞書に相違を発見したとき、どちらが間違っているか当人たちには判断できないし、第三者による仲裁もかなわない、なぜなら彼の辞書もまた二人の語彙とは異なっていた。
 とはいえある程度の共通語(モジュール)の整備はおおむね成功している。片言で、身振り手振りを交えてどうにか。辞書と呼ばれてる仕様書を使って君だけの言葉を作ろう! 例えば物語を記述する言葉は、その類の片言の共通語だ。

 『赤い林檎』と書いたとき、頭の中で再生される赤い林檎の姿は、読者それぞれに異なる。

 意味の伝達は物体ではなく、影絵だ。ネガだ。オブジェクトに対する光源は誰しもみんな違っている。見て伝えるものは、影のかたち。

 

「どうして空気は透明なの?」

「難しい質問だな、調べてくる」

「おとうさんも知らないことあるの?」

「あるよ。覚えてないことも、間違って覚えてることもある。だから、本当のことを言わなきゃいけないときは、事前にちゃんと調べるんだ」

「でも、なんでトイレにケータイ持ってくの?」

 

「わかった、わかったぞ」

「なんでトイレに入ってたのにわかるの?」

「まあいいだろ。いいか、もし空気に、色があったらどうなる? 霧のとき、空気が白いと、見えないだろ? 空気に色があると困るんだ。
 だから、空気が透明に見えるように生き物の目は進化したんだ。空気の方が生き物よりも先に生まれたから、生き物が空気を利用するんだ。宇宙ができてから、生き物が生まれたんだから」

「みんな、空気が見えないの?」

「空気のなかに生きてる生き物は、みんな空気を見えないことにしたんだろうな」

「魚は? 魚は水が透明なの? 水は透明だけど、見える透明だよね」

「魚の視点は想像でしか分からないが、恐らく人間が見ている以上にクリアな水中を見てるんだろうね」

「イカはすごく大きな目を持ってるんだよ。ふつうの魚よりも目が良くって、ぜんぜんちがう進化をしたのに、脊椎動物の目に似てるんだよ。
 デメニギスって知ってる? 深海魚で、目が頭のなかにあるの。頭の部分が透明になってて、体のなかにある目が頭を透かして外を見てるんだよ。
 でもそれ水のなかだよねえ。水のなかだから水が透明に見えるんだよね。水槽って地球の空気があって、アクリルガラスがあって、その向こうに水があるけど、水槽を挟むと水のなかも見えるんだね。魚はどうなのかな、水槽があるから僕のこと見えるのかな。
 デメニギスは頭が水槽の壁になってんのかなあ。
 でもトビウオって水の上に出るけど、そうすると直接空気に触るよね。そのときってどういう風に見えてるのかな。ハゼも渚に上がってくるよね。ヨツメウオって知ってる? 水中も水の上も見えるように、目が横半分で分かれてるんだよ。テッポウウオも水の上を見てるんだよ。水の上の虫を狙うとき、ちゃんと水の屈折も計算して見てるんだって」

 

「おとうさん」

「まだ病院行かなきゃだめ?」

 

「どうだったの?」

 何も変わったところはなかったと彼は言った。彼は証言をためらっているようだった。例えば、何が分からないのか分からないという状態。傷むのにどこが痛いのか分からないから、分からないうちは何の病名もあり得ない。

 眼下の街明かりは曇っている。赤黒い靄に覆われて光は不確かに濁っている。私達は赤黒い夜の上空に机と椅子を並べ、コースのディナーを頂いている。

「かしこまりすぎちゃったかもしれない。どっか、カフェとかの方が良かったかもね」
「たまには、構いません、僕は」
「そう。たまにだから。次からはもっと軽くする。ドレスコードもなし」

 と言っても彼はマクドナルドにも同じ格好で現れる人だ。

 黒いタイの上に銀色の飾りがふと輝くのが見えた。

「タイピン?」

 魚のモチーフだ。

「何の魚?」
「たぶんアジです。稜鱗(りょうりん)がある」
「なに?」
「ゼイゴの部分」

 外して見せてくれた。まん丸の目の大きさとすっきりとした紡錘形は、見覚えのある魚の形だった。ゼイゴの部分も精巧だ。

「犬は、犬種を区別するのに、魚は一括りに魚ですね。人間に対しては個人の見分けもつくのに。自分の種から遠くなるほど判別は疎かになる」
「見慣れないから、何が固有の特徴であるかも見つけられないんじゃないのかな」
「見る目の細かさというか」

 魚のタイピンはふたたび彼の黒い衣装の上に収まる。

「どうしたのそれ、買ったの?」
「貰ったんです」

 視線は私にでもなく机上の料理にでもなく、降り始めた雨で遮られた眼下の新宿副都心に落ちた。

「最近」

 次のワインが運ばれた。

「友達……友達からです」
「どういう人?」

 都市へ落とす視線がゆらいだ。ほらあの人、とその友達を窓の向こうに探しているみたいだった。

「善い人です、たぶん」
「どういうプレゼントだったの?」
「どういう、とは」
「誕生日、とか、お祝いとか、日付のイベント」
「無かったんじゃないでしょうか。“なんとなく”だったんです。……そういう人なんです」

 白身魚のポワレ。紡錘形から切り出される前、生きているときの形は復元できない。

「そう」

 生きているのと同じように。

「いい趣味なんだね」

 レモンの断面。皿の上の白と黄と緑。薄暗く密かなフロアの照明。もっと、明るい色の衣装を着てくればよかった。

 彼に会うと決めていると、いつもモノクロームか紺色の服になる。彼には引きつける力がある。本人は望んでいない。けれども眼差しや態度や不随意なところで、彼は素敵だ。自信はなくていい。自然体の彼が良い。

「もし良ければ、今度」
「紹介してくれるの?」
「彼らさえ良いと言えば……不思議な人なんです」
「気難しいのかな」
「多分。でも、多分、会ってくれる気がする」

 あなたと同じくらい気難しいのだろう。

「なら今度、よろしくね」
「伝えておきます」

 

「という挫折体験さ」

 そうだろうか。僕には挫折とは違って聞こえた。人間関係は確かにバッドエンドかもしれないけど、人生においてエンドではない訳だし、実は作中の二名ともつい先日に出会ったそうである。全くエンドしていない。ただ、苦い思い出ということだ。

「逆にこの件のトゥルーエンドって何だと思う?」
「何があったのか、どうしてなのか、とか、本当は嫌いじゃないんだみたいなことを、口に出来たらですかね」
「出来る? 君なら」
「無理っす」

 たとえ話として僕は荻原のことを考えた。僕は荻原が、誰かと交際していたらと考えた。荻原の好きなダンディなオッサンだったら、ああまあ良かった良かったと思っただろう。同じ学年の誰かだったら、と考えて、つい先日それに近い事件があったことを思い出してものすごくばつが悪くなった。

「統計データとして聞くだけでエピソードには興味ないけど、八月一日くんはカノジョっているの?」
「いないです」
「いるか、いらないかで言ったら?」
「いらないんじゃないかなあ……いたらいたで考えますけど、そんな贅沢、オレには回ってこない気がする」
「贅沢なの?」
「贅沢じゃないっすか? あれ……もしかしてモテてました……?」
「今はそこそこ。人当たり良くだね。人情は大事な道具だ」

 結局このひとは傷ついたのに、傷を売り物に生きる強かな人間のようだった。でなきゃ、いくら高校の後輩だと言っても、その辺の高校生に身の上を語る度胸はない。

「あ、もしかしたら当時の先生とか、まだいるかもしれないですね」
「でも校舎も改築しただろ? けっこう変わったんじゃないか」
「生物室のアカハライモリ」
「ああ、いたいた……なんだ、あんまり変わってないのかな。クラゲの稚魚は見た?」
「稚魚?」
「こんなちっちゃい奴。米粒を半分に切ったぐらい。半透明なのを、理科の先生、何て言ったかな、高校理科の学会か勉強会で分けて貰ったって言って授業中見せてくれたんだよ。そしたらあいつが先生より詳しくて、あとで先生と話し込んじゃって、俺なんかサッパリだから何がどうスゴいのか分かんねえけど貴重だったみたいでさ。生態を教えてくれたんだ。何も覚えてないけど」

 でも教えたことは覚えていて、そのひとときだけは記憶に刻まれている。

「なんか、聞いてると、別にその人のこと好きなんじゃないの? って思うんすけど」

 一滴たりとも呑んでいないが僕も雰囲気に酔っているようだ。

「言うねえ」

 高田氏はニヤリ笑った。弁解しようとする僕を制して続きを促す。「言え言え。言わなきゃ伝わらない」
「聞いてると……その人とは仲良くできるんじゃないかなって。あと、女優さんの方とも本当は仲良くできると思う。三人でいるのが相性悪いんじゃないかな……。三人組ってひとりは疎外されるじゃないですか。オレだけかなあ」
「まあ、つまりそうじゃなきゃ、どうにかね」
「たぶんですけど」
「そうか、な」

 皿の上に余っていたオムそばを等分してかっ込んだ。僕らが追加の水を頼むと、個室にさがった照明が軋んだ。隣の個室がどよめいた。

「地震……?」

 大きく縦揺れがあった。短く、一撃が大きかった。とっさにこわばり身をかがめた僕だったが、緊張しながらも落ち着き払って店内の様子を注視する高田氏に、生業のプロフェッショナルをふと痛感した。
 震源と規模を知りたかったが、地下だからか、端末はなかなか電波を拾わなかった。

「デカいな」
「ですね」

 縦揺れはすぐに収まったが、照明はまだ天井で揺れ、他の客席から不確かな話し声が届いた。

「何事もないといいけど」

 高田氏は店内を見つめていた。店内の喧騒は元に戻り、隣の席の人々が口々に言い合う感想に僕は頷いたり疑問を抱いたりしていた。結局、こうやって呑気に座っているのだから、有事の際は痛い目に遭うのだろう。
 電波を拾おうとして端末を振り回しているとようやく低速モードで回線に繋がり、不在着信に気がついた。

 断って地上に出た。夜には雨と聞いていたが、小雨がぱらつき始めていた。高架下のせいか店舗の前も電波が悪く、少しうろうろして一本隣の通りまで歩いた。発信者は荻原だった。やっと回線が繋がっても今度は相手が出ない。

『夕飯食べに行ってるから、またあとで連絡するよ』

 メッセージを残して戻ろうとした。しかし何か思うところがあり、それはこんな時間にテキストではなくわざわざ電話を残してきたからだったが、一言、

『大丈夫?』

と添える。

 今度こそ戻ろうとすると今度はcelestaからメッセージが入った。地上に出てから堰を切ったように電波が流れ込んできているのかもしれない。

 

(この地震による津波の心配はありません)

 

 嫌な音の警報が隣のテーブルから聴こえるや否や、フロアが大きく突き上げるように一度揺れた。窓を見ると、少したわんでいるように見えた。僕達は座席から立ち上がらずに辺りを注視した。シャンデリアが音を立てて揺れた。物が落ちることはなく、給仕達は平静にフロアを見回った。

「久し振りに怖かった」と塔子さんが言った。「ちょっと無重力っぽかった。飛行機の離陸みたい……。飛行機もジェットコースターも平気なんだけど、今のはびっくり」

 窓の向こうは曇っていて街の様子を伺えない。夜景を見たところで、混乱の程など、この高さからでは計り知れない。

 水は。この高さからでは計り知れない。

「怖かった」と隣の席の老婦人が語った。先程まで、誰も彼も声を荒らげることなく談笑していたから、場にそぐわない恐怖の感情は真に迫った。高層ビル。

 誰かが確かめる。

 

(この地震による津波の心配はありません)

 

「風景の美しさに罪悪感を覚えました」

 メインの仔羊のロースト、赤いソースは酸っぱかった。

「報道写真の瓦礫を見ても、晴れた日には光輝いてるし、瓦礫さえすべて沈んで見えないときもある」
「でも、干渉してないでしょう」
「僕が、現実に?」
「あなたにそう見えてるだけということなのに、あなたのことを誰が責めるの?
 あなたは違っていることをちゃんと自覚している。あなたはあなたのことを精査しているし、苦しんでる。それだけ自覚的なら十分じゃない?」
「しかし妄執だ」
「差っていうのは外国語みたいなものじゃないかな」

 そう言った彼女はいっとき立ち止まった。

「なんでそんなこと言ったんだろう?」

 

 頭で理解しているものと目に見える世界が異なる。目だけがいかれているのかというとそうでもない。嵩の高い日は膝から下をびしょ濡れにしながら透明な事象をかき分けて歩く。
 視覚、聴覚、嗅覚、触覚に訴えかけるそれは認知の中にしかどうやら存在していないらしい。
 目の前の彼女と対話をするにも、全く同じ感覚器でもって認識しているというのに、彼女はいる。彼女には見えない。僕は見る。僕はいない。

 

 高校のとき物理の実験で居残りを食らった。斜面に車を走らせて加速度を測る実験だったが、何度やっても不明の要素で車の加速に抵抗がかかった。手順に誤りがないことは明白だった。でも僕の見ている前で、車は、坂道を下ると水面に叩きつけられ、ゆっくり沈潜して水底に横転した。打点した記録テープはおよそ僕の見た出来事どおりの値を残した。何度やっても変わりなかった。

 見かねて敬司君と塔子さんが現れた。僕は手順通りに再度車を走らせた。二人が見ていたから有用な実験結果を入手できた。大学入試に実技がなくて良かったと、冗談ではなく安堵した。

 

 夏の夕方の報道の水難事故に憧憬を向けたことがある。十字路のタイヤ痕は洗い流される。幼い子が頭のてっぺんまで沈み、笑いながら泡を吹く。
 高いところは正しいのかもしれない。水害はここには来ない。
 このレストランは正しい。

 

「漠然と、大人になったら終わると思っていました」

 彼女は微笑んだ。大人びていた。

「二十歳そこそこなんてまだ過渡期だよ」
「次は三十?」
「あんまり行き先を決めない方がいいよ」
「終わる気がしない。終わる、というか」、続けようとしたが、この先は倫理に反していた。
「ねえ、今更遠慮なんてすることないよ。今日は私たちだけでしょう」

 そういう彼女の方も、そう切り出すということは、遠慮があるのではないかと思った。僕は改めてフロアを見渡した。客のなかで僕らが一番若い。目眩を感じ、酔っていると気付く。ワインは身体に合わないようだ。ザムザは飲みたがっていた。

「ふたりだけです。でも、別件で」
「なに?」
「いままでの話と全く変わります。連続していません。僕の話ではありません。その、貴女の目に見えなくて、僕の目にも見えない話です」

 姿勢を正す彼女の在り方は澄んでいくように思えた。

「幽霊のような」
「ひとの話?」
「友人の話」

 ジョークかもしれないが、というかジョークと見てほぼ間違いないようだが、ザムザが見ているらしいものを話した。

「僕が見ているそれのように、」それを海と呼ぶべきか水面と呼んだら良いのか、それとも断定してはならないのかいつも悩み、代名詞でぼかした。

「ひとが見える人がいる、そこかしこにいる、いつも僕達がしていることを脇で見ている……」なぜ僕が語ると、こうも確からしくなくなってしまうのだろう。

 塔子さんは考え込む。「いない人を見ているの?」

「彼はそうらしいです」
「彼は友達?」
「恐らく」
「お会いしてみたいわ」
「塔子さん。やっぱり皆、区別がついていないのではないでしょうか」
「そうかもね、ここにいる私も嘘かも」

 僕は気の利いたことを言えない。
 でも彼女には本当のことを見ていてほしいと思う。彼女が本当のことを知っていればこの世の中は確からしくなりそうだった。少なくとも彼女が下す正誤判断は確からしい。きっと参考になる。彼女には灯台として毅然とそこで見晴らしてほしい。

 季節の果実のババロアが運ばれた。風向きが変わり、雨が窓ガラスを叩いた。

「思いのほか本降りだね」
「傘は」
「折り畳み」
「僕は忘れました」
「だと思った」彼女は笑った。

 街明かりの赤い光が、眼下の夜に沈んでいく。僕は真実を伝えたいと思う。ただ、僕が語ることは掴みようがないから、望むのなら出会えばいい。僕の知ったところではないという気持ちもあった。

 セレスタはどうだろう。彼女が女友達といるところを知らない。例えば彼女は、僕よりも甘いものの色艶を鋭敏に味わえるだろうし、一口ひとくちを口に含むたびに?いつわりなく賞賛を贈るだろう。

 

「きょうはうちに泊まる?」と塔子さんが言った。「この雨だし、C駅まで帰るのも大変じゃない?」
「ご家族は」
「あれ、やだ忘れてるの。私うちを出たんだよ。叔母さんの持ち家の中野のマンションを借りてるの。パパはいつまでも過保護だから子離れしなきゃって」
「高橋さんに大切にされているんですよ」
「汐孝だってそうでしょ」

 彼女が箱入り娘でもこちらは保護観察だろう。

「この席、うちのマンションの方面にわざわざ向けて取ったんだけど、こんな天気じゃぜんぜん分かんないね」

 見えなくても、雨が降っていても、彼女の部屋は常に見下ろされている。暮らす彼女は視線を浴びる。視線を集める彼女は劇の成功を喜ぶ。

 スポットライトを浴びて彼女はぴんと背筋を伸ばす。舞台上の所作はしばしば「頭の天辺から糸で吊られるように」背筋を伸ばせと例えられる。見えない糸に吊るされて、彼女は堂々と鮮やかにそこに立つ。

 

 …………というお話があった。
 
 いやいや。
 おれはセレスタに話したんだ。
 
「あてもなく歩いて気付いたら川辺の橋の下にいた。橋の支えのところ、橋脚? のところに座り込んでた。今日みたいに嫌な雨が降っていて、ここにいちゃ危ないとは思ったんだけど、疲れ切っていて動く気にならなかった。まあね、自暴自棄だった。気持ちのせいっていうよりも空腹と睡眠不足と疲労。稼いだ金はビタ一文も使えないし、誰もおれのことを知らないし、見えなかった。誰にも見えないということは世界が冷えていく経験なんだ。
 朦朧としながら諦めてへたり込んでたところに、杖をついた男がやって来た。歳を取っているが背筋はきれいで、白杖ではなかったけど、白杖と同じ使い方をしていた。大雨の真っ暗な夕方にスモークのサングラスをかけていた。
 で、おれに向かって『危ないぞ』と言った。おれもそう思ったし、目の見えないジジイが嵐の日にお散歩してるのも危ないだろ、だからそっくり返した。『危ねえな』って。で、あれ? 見えんの? って興味が湧いて。盲目ゆえの第六感みたいなものがあるんじゃないかと思ったんだ。
 危ないから泊まってけってオッサンは言ったんだが、河原の砂利道だったから、石の塊もぬかるみもあって、オッサンが杖ついて歩くのには危ないんだ。オッサンもちょっとヨタヨタしてるから、危ねえなって、降りていって肩を貸して、そいつん家まで送ってやった。橋からすぐだった。川沿いだったから。おれはね、めちゃくちゃ寒くて、胃の中も体重も脳みそも身体から足りないような感じがして心細くって、靴もコートもドロドロで、誰かんちに上がれたのに、有り難く思うよりも油断したら死にそうなぐらい疲れていて、ろくになにもできずに毛布にずっとくるまってた。
 一夜明けて、きれいに晴れて、やっと安心して寝られたんだ。それで回復して家を出た。
 なんであいつん家にいなくてここにいるかって? オッサン相手より若い女のコの方がいいだろ」
 
 地震が来た時だけは口をつぐんだ。大きな揺れで、地鳴りが聞こえたような気がした。
 彼女には諦めてるようなところがあった。何か揺れているものがないかと部屋のなかを見つめているだけだった。
 いつもの災害だ。いつもどおりの不条理だ。
 
 なぜ警報の音を切るかというと、サイレンの音が怖いから。警報よりもこれから起こる現実の方がずっと怖いのに。
 あるいは、無駄だから。備えはないし、本当にそのときが来れば誰も備えようがないから。
 警報を切ったところで現実が目の前からいなくなる訳ないけれど。
 
 だんまりを決める青い目に遊びを持ちかけた。
 
「こっち、ねえ、おれのほう見て。出来る限りまっすぐ見る。そう。そこで止めて。ちょっと瞬きも我慢」
 
 10秒キープ。色素を貼り合わせた薄青い目がぱっちり見開いている。角膜に色素が触れる安物のレンズは、目玉に紙やすりを当ててるようなものだから、少女は外向きに眼(め)を輝かせるたびに自らの臓器を磨耗させている。
 
『なにしたの?』
「なんにもしてないよ。今のは。そういう遊びがあったんだ」
 
 忘れかけていたプリンをようやくテーブルの上に置いた。忘れかけていたんじゃない、冷やしていた。さっきフライパンで蒸した奴だ。プリンはフライパンでも蒸せる。
 少女はオーバーリアクションに甘くてなめらかなプリンを口に含む。甘いものを愛でていれば道を間違えても大丈夫だと思っている。道を間違えたところで教えてくれる親切な人はそういないけれど、過ちに目を瞑れる。瞼の内側で青い色素が君の生まれついて持った眼(まなこ)を曇らせたとしても、きみは不都合に目を瞑る。
 
『ザムザさんは、じゃあ、まえは、ついていけなくなったの?』
「たとえ話だったけどね。今でもあんまりその辺は言えない。いきなり言うとびっくりするかもしれないだろ」
『たとえ話でもほんとうのことです』
「そういうことだ。本当にもの分かりが良い、良すぎるよ、逆に大丈夫?」
 
 おれはコーヒーミルが欲しいが、家主は飲食に恐ろしく無頓着でせいぜいドリップのインスタントコーヒーしか常備がない。彼女がこれからこの世界で強かにひとりで生きていく手助けをするには紅茶とコーヒーが絶対に必要だ。あとプリン。教育を、自分の歩まなかった道へ未来ある子供を誘導する年長者の自己満足にしてはならないが、それでも彼女には同じ轍を踏まないでほしい。
 
 すべての事象は限定的だ。あらゆる意味はそれを受け取るだれかひとりの分しか用意されていない。どんな親友とも、愛する人とも、それぞれの持参した意味は同じ意味ではない。それは分け与えることができない。
 
『でもわたし見たかった』
「そう。その態度だ、半信半疑。素晴らしい。プリンもう一個いる? もう無いんだけどさ」
『なんでそんなほめるんですか』
「君のことは評価してるんだ。でなきゃ話さない」
『どういうところがすき?』
「そうやって聞くところ」聞いた上で聞いたことを悔いるところ。
 
 おれはこの年頃の少女と接したことがあっただろうか。
 “おれは”この年頃だったことがあっただろうか。
 
 “おれが”誰であるか考えるとき、それが分かったところで(おれの秘密が暴かれようとも)おれは動じない。おれもおれ自身の読者なのだろう。あなたにとってのおれの存在よりも、おれはおれに対して親密だが、おれはおれのもつ情報に動揺しえないので、何というかおれはおれに対して“おれ”の作者であるかのような接し方をしているのではないか。客観的に言っておれはおれの作者にはなりえないのに。
 あなたはおれについて考えようとするだろうけど、掲載順に読み進めてきたのなら、本日までに書き表されてきたことはおれの読解のためには足りていない。迂遠してきた旅人がいれば、おめでとう、おつかれさま、ありがとう。
 あなたは好奇心を巡らせればいい。ここでは許されている。あなたが詮索の犠牲にならないよう、情報への劣情の犠牲として我々は存在していたのだから。
 我々のこと、可哀想であったこと、彼が可哀想な結末に終わったこと。君は漂流し、僕は待っていた。ページを超えた物語で、終わってしまった物語で、最後のページのその次に時を進めたぼくはどこにも在籍できないから、ページも存在しない中空において、まるで倒壊したビルの屋上にいまだ佇んでいるように、立つでも寝るでも座るでもない状態で、漂うように音も立てずに留まりつづけてそこにいる。何も語らずに居続ける。きみの消えた先を夢想している。
 おのれのなかの観察者をきみが自罰的なまでに恐れていたのか、期待を寄せ過ぎたのか、その両方だったのではないか。青い眼は見るためではなく見られるために開かれていた。あるいはおれが深刻すぎるんだね。薄青色は君によく似合っている。君は女の子としてステレオタイプのピンクを選ばなかった。
 
「どうしてセレスタにしたんだ?」
『空っていみです。あと楽器のなまえです。鉄琴みたいなおとの鍵盤楽器です』
 
 ベルのような音色の楽器だ。きっとそういう笑い方をする。
 
『ちいさくてやさしい音をします』
「弾ける?」
『わかんない』歯の隙間から苦笑が漏れた。
 やがて目を伏せ、視線をそっと机上にすべらせた。よく見ればまつ毛の色も少し薄く、瞼に少しの赤色を乗せている。
 
『ちいさいころ』顔を伏せてしまいがちなので、読み取りにくい。
『ほんのちょっとピアノをならってました。バッハのメヌエットならたぶん弾けます。やってることいっしょなので、ピアノと、たぶん、ひければだいじょうぶ』

「やめちゃったんだ? ピアノは」
 
 彼女はひらひらと空手を泳がせ、苦笑した。『じゅくがだいじだったの』
 
「上手くなれたかもしれない」
 
『わかんない』
『ダンスもすぐやめちゃった』
『すぐやめちゃうから』
 
「塾はすぐやめた?」時効の冗談だ。
 
『試験がおわったらやめました』
『でもー、うかんなかったです』
『すごく制服がかわいかったです。ちゃんとしたブランドと組んでデザインしてて。校則はきびしそーだけど、がっこーもせーふくもかわいいからいきたかったです』
 
「ピアノやダンスは続けたかった?」
 
『つづけてたら、たぶんちがうわたしになってます』
『ちがっていくわたしのことをときどき想像するのはたのしいです』
『たのしいっていうか』
『かなしくって』
『すがすがしいのかなあ』
 
「そうだね。ここにいるのはいつもああしなかった方の自分だ」
 
『いまできていないことができている別の未来があるって知ってると、今できていないのに、自信になります』
『あー』
『んー』
『自己弁護っぽい』

 この余生はサービス残業のボランティアだった。

『でもその、今だってたぶんできないことのひとつを、やろうとしてやってるんです。わたしのできるかのうせいの一端が“わたし”なわけで、だからなるべく、とっぴょーしもないことをしよーとしています。たぶん、ほかのわたしにわたしのことそーぞーしててほしーです』
『でも今かんがえました』
『ザムザさんは整形したことあります?』
 
「“これ”だよ。だろ? 見え方が変わった。劇的だ。しかもカッコいい」
 
『なんでザムザっていうんですか』
 
「あまたある物語の中で最も成功した作品のひとつだと思ったから。有名だろ? あらすじも分かりやすいし程々に短い。ゲン担ぎだよ、縁起」
「って、今考えたんだけどさ」

 雨が戸を叩き、閉め忘れたカーテン、冷たい窓ガラス、暖色の光が外の夜へとひらけて、雨宿りにさまよう蛾たちを呼び寄せた。

「うわっ」前触れもなく本降りになった空に八月一日夏生が叫んだ。「なんなんだよ」ここまでの色々な障害物競走を経て彼には独り言の癖がついている。気付いていない。

 旧式の携帯端末にはそろそろガタが来ているようだった。あるいは大雨で電波が乱れているのかもしれない。今更になって、今朝8時のタイムスタンプの、celestaからのメールが鳴った。今日は乱れているんだと八月一日は思った。時の流れに翻弄される日。こういうのはときたまある。

 サクラの木陰とビルの庇を伝い、濡れ鼠になりながら居酒屋へ駆け込んだ。階段を下りながら、洪水になったら駄目になりそうな店舗だと思った。

「雨、ひどいですよ」
「23区側しか本降りにならないって言ってたのにな」
「震源も分かりました。『東京23区』って」
「珍しいな」

 僕が外に出ている間に、食べ残しの皿はきれいに片付いていた。なんと会計まで支払い済みだった。

「おごりって言っただろ?」

 しれっと語る高田氏の余裕はとてもスマートに見えたが、貸しを作ってしまったことへの一縷の懸念を拭いきれなかった。
 陳謝して外に出た。雨のなかを濡れながら駅舎に駆け込んだ。店にいたほんの少しの間に雨足は多少和らいでいた。
 このまま愛想良く笑って別れてしまえば丸く収まっただろうに、つい口が滑って、というよりも故意に、喉のつっかえを取っ払ってしまった。

「公園の件ってどうなったんですか」

 このまま別れていれば丸く収まったのに、とは、高田氏も思っていたに違いない。混ぜっ返された事件に彼は少し逡巡したように見えた。

「今のところ何もない。ただ、あの神社に賽銭泥棒があった。窃盗ということでパトロールに回った。一応町内会持ちの施設だからね、微々たる額だが町内会から要請があったから仕方ない」
「ネットじゃ意見も噂もなんにも聞かなくなりましたけどね」
「現場はいつまでも現場ってことさ。事件性があるんだからまだ終わらないよ。で、たぶんこの終わらなさってのは見ているだけの連中には簡単に伝わらない。伝えようとするのもちょっと難しい」

 大したことないはずの出来事も、実感がある限り忘れられない。僕は、この現象の先にいる彼女を探しているからまだ降りない。

「高田さんは見つけたらどうするんですか」

 彼は微笑気味の無表情で言った。でも回答は心なしか今までの問答より親切に聞こえた。

「秘密にするだろうね」

 上手い返事が思い浮かばなくて黙ってしまうと、高田氏は「さ、今日はお開きだ。高校生なら帰る時間だろ」と先んじて終止符を打って立ち去った。

 さっきのセレスタからの受信は、開いたはいいがろくに読んでいなかった。取り残されて改めて端末を開くと、ちょうど通話の着信があった。
 連絡先に登録された名前。応じた。

「荻原?」

 沈黙があった。僕は待った。
 長い無言を経て聞こえた。

「きて」

 駅前のレンガ敷きの通りは雨に濡れて滑りやすい。雨の降るなか、街灯がレンガ道の上の水膜に天地逆さに反射している。

 居場所は予想できた。西S行きのバス停を探して、滑りやすい道をバスターミナルへ小走りした。乗る路線は本数が少ないのだ。グリップの効かないスニーカーで、転倒しない可能な限り急いだ。

「電話じゃダメかな」

「できれば会いたい」

 バスは来ていた。発車しそうだ。

「今どこ?」

 返事を待たずギリギリで駆け込んだ。電話を繋げたままだったから、何人かの乗客にモラル違反を煙たい目で見つめられた。事情なんて、知らないくせに……。いつも、ときどき、どこからか現れる、冷たい怒りに捕らわれそうになる。

「ミナトさんとこ」

 バスが発車した。空いた車両の後ろに移動した。

「いま、乗ったから、バス、2、30分ぐらいで着く」

 答えがない。

「あのさ、電話繋いでようか?」

 一拍置いて、少しの気配がして、向こうから通話が切れた。

 

 バスは帰路の逆方向へ走る。

 ポケットからこんがらがったイヤホンを取り出して耳に突っ込んで、いつものバンドのいつもの曲を、正しい轟音を再生した。
 エンジン音も車内音声もイヤホンで塞いだ耳を通過して聞こえる。遮音が目的ではないから、環境音は構わない。音楽が流れている間、僕は流れる時間を音楽に預けて座席に沈む。4曲か5曲を聴いているうちに、いつもの場所に到着するだろう。

 夜の暗さがバスの車窓を見覚えのない風景に変容させた。窓ガラスを打つ雨粒が夜の明かりをぼやかした。見え方が変わったのではなく、バスが違うところを進んでいるのではないか。知らない路線を進んでいるか、乗ろうとしたいつもの路線のはずなのに地勢が変動してすっかり違う場所になってしまったのか。そんな心細い想像をし、バスは一度、市役所の隣の、開店しているところを見たことがない小さな一軒家の喫茶店の前で止まった。皆そこで降り、空っぽになった車内を眺め、僕は音楽を聴いていた。悲しくて謎めいた、歌のないロックを聴いていた。音楽の秘める夢想の情景が車窓の外の闇に吸われて代わる代わる現れて消えた。歌の流れるあいだだけ想像のなかに立ち現れる風景や感慨が恐らく「世界観」の正体だ。僕はたびたび夜の高速道路を走る主観映像を彼らの音楽のなかに見出す。目覚めたまま夢を見ているように、好きな音楽は風景を運んだ。対向車線に光の軌跡を見た気がして、僕は歌詞カードの一節を思い出して聞こえないように小さく口ずさんだ。歌わない音楽に添えられた歌詞が、曲のどこに呼応しているのか僕たちリスナーには明かされないけれど、言葉は秘密の呪文のように脳の奥にいつの間にか記憶され、僕は、ふと思い出す。

『鉛色の一日』ははじめて聴いた曲だった。アルバム『she/see/sea』の3番目に収録されているミドルテンポの楽曲だ。Drive to Plutoは、初期の曲はノイジーで攻撃的で尖っている印象だが、時を経るほどに音色の作り方が澄んでいって、エレクトリックで技巧的ながらなめらかな手触りに丸くなっていった。『鉛色の一日』は初期と中・後期の橋渡し的な作風で、鋼鉄を削る重機のようなエレキギターの低音のうえに、雨粒みたいに繊細なピアノがメロディを乗せていた。もしもピアノだけで作っていたら甘ったるそうな歌だけど、バックで刻まれるのがハードな轟音だから、ロマンティックさがちょうどよかった。僕にはちょうどよかった。メロディが胸に迫った。ずっと聴いていた。

 小学校から中学校に進学したら毎日が精彩をなくした。地獄という程でもないが、日差しや雨を遮る屋根のない荒れ地のように感じられた。荒れ地に基礎も作らずにあてずっぽうに建てて傾いたささくれだらけのステージで、人はコントの中にいるみたいに自分の役割を披露して、僕も番組に引っ張り出され、笑いを取る日々は苦しかった。

「こんなのバカらしいよ。降りよう」

 ある日口走ったが誰も真意を掴める筈もなく。

 何かに打ち込む「キャラ」でもなく、毎日の話題に傾倒も出来ず、僕は「その他」の領域にいた。「その他」なりの居場所はインターネットにあったが、そこでも腰を据えられず、僕は殆どROMに徹していた。どこにいようとも匿名だろうとも、わざわざ語るまでのことではないと思っていた。僕が書くまでもなく面白いことを書く人間はたくさんいた。真偽不明の噂話や異文化・異国を揶揄したジョークやさすがに知らなくて良いレベルの下品な知識を知ってしまいながら、漫然と椅子に座って動かず、毎日生成される文章に目を通していた。

 やがてよく読むようになったのは怪談だった。オカルト・怪談・怖い話を好んだのは、大概のジョークよりも怪談の方が文章が練られていて面白かったからというのと、傍目に見てありえないと分かっているにも関わらず、怪談とそれを読んだ人間は、その実在を疑わないというルールで談義を広げているところだった。加えて日本国内の怪談の舞台は僕のいる場所と地続きである。少なくとも投稿した時点で投稿者は同じ島国に生きていて、その投稿日に僕は生きていたんだと思うと、他の作り話よりもはるかに鮮度が良い。しかし実際のところ、web上でリアルタイムに投稿された話を読める機会は滅多になかった。いつも誰か有志が編纂した「まとめ」の目次から、評価が確定した過去の「傑作」を読んでいた。そうして現在起きていることよりも過去に慣れ親しんでいった。

 公園の霊は、それだけはたまたま、ネットよりも、家族の口から噂を聞いたのが先だった。ネットを探すと、オカルト系のカテゴリではなく地域情報掲示板にひっそりとスレッドが立っていて、celestaもそれを見ていた。それからはまあ、そういうことになった。何の手がかりのないまま†闇巫ノ騎士†から幽霊の捜索を依頼され、僕はcelestaを捜している。
 ネットを使っている。しかし、リアルタイムに繋がることはできず、過去ばかり追っているように思う。いま起きていることよりも、残された出来事の手掛かりや痕跡を捜していた。かつての出来事、過ぎた出来事。無限の文献にめまいを覚えた。

 光の伝達が目に見えるほど遅れる広大な宇宙の話になると、宇宙の過去を探るには、望遠鏡で遠くを見る。それだけ遠い場所にはまだ億兆年前の光が残っているから。過去を見ることは遠くを見ることだ。
 今ここで起きていることよりも、過去と遠くの膨大なアーカイブを読み漁ることを選んだ。美しいものも正しいものも楽しいものも、ここではないどこかにあると信じ、遠くへ、遠くへと、もっと遠くへ行けるはずだとハイパーリンクをさまよっていた。
 過去の投稿に隣接する関連情報を手繰り、知り合いの知り合いの知り合い……と終着点のない移動に時間を費やしていたときに、Drive to Plutoに行き当たった。はじめて聴いたとき、目的地に辿り着いたような感じがした。言葉もビートも音色も、僕の理解の及ぶちょうど一歩外側にあるようだった。僕にとってふさわしい距離感の未知であり、もっと聴きたいと希求し、追いかけることが出来た。出会ったときには活動を終えていた過去の歴史だったとしても。
 地上から観察できる太陽光は8分前の姿である。僕が知った頃、冥王星はとっくに太陽系の惑星から除名されていた。いま追っている姿が冥王星の過去だとしても、仕方なく妥当な気がした。

 こうやって延々と内省していられるのは才能なのかもしれないとある日気付いた。クラスメイトに聞いてみた。普段何もないときに何をしているのか。すると「何もしてない」だとか「誰かと連絡を取る」と答えがあった。じゃあ俺のメール履歴はお前らの暇つぶしかよ、とは面と向かって言わなかったが、みんな反省をいつするのだろうと少し疑問だった。
 少しして反省はあったと気付いた。みんな匿名掲示板や何かのwebサービスの自分のアカウントで、内省や愚痴や提言を記述していた。誰も僕にアカウントを教えなかったから僕が彼らの反省の領域の存在に気が付くまで時間がかかった。要するに裏の人付き合いから僕は隔たれていた訳だ。見つけた一人から芋づる式に皆の日記が見つかった。窃視だったが、罪は無かったと今でも思う。なぜならワールドワイドウェブは市立中学の教室ではなく世界全域を架ける雑踏だと僕は知っていた。言葉は独り言ではなく、言葉の読める限り永久に残る。ひとつの不用意な発言から、発言者の住所と顔写真を突き止める執念をある種の人々が持っていることを知っていた。
 クラスメイトの日記を読んで、僕が全く登場しないことに寂しく安堵し、たった一度だけ解せなかったのは僕が写り込んだ集合写真を断りなく載せられた時ぐらいだった。醜いこと、くだらない悩み、互いに見ていると了承し合ってる仲間同士にだけ通じる秘密を踏まえた内輪のやりとりを黙って読みふけった。僕はクラスメイトたちにある一面の意味では好意を抱いた。誰にでも内面があり、悩み、言葉で吐露する。苦言を呈したいのはセキュリティとプライバシーへの配慮だけだ。

 同級生をザッピングしながら、荻原映呼は元気かなと思った。同じ団地に住んでいたが、荻原一家は市内に持ち家を買って団地を出て行き、僕達は別々の中学に進学した。しかし同じ中学に通っていたとしても、男女とかいう関係で疎遠になっていた気がする。
 小さいころはよく遊んだ。男にしては弱っちい僕と女にしてはハキハキしたエーコは足して割るのがちょうど良かった。自転車で川に出て、川辺の交通公園で遊んだあとにミナトさんの家に立ち寄るのが好きだった。犬は最後まで怖くて苦手だったけど、老いたレイは僕を極力怯えさせないように努めていたのではないかと思う。
 レイが死んだとき、たいして仲も良くなかったのに僕はすこし涙を流した。隣でエーコは堪えていた気がする。
「女の方が強いんだ」ミナトさんがエーコには聞こえないように耳打ちした。何かそれは、褒めているようには聞こなかった。

 中学の卒業式のあと、報告のためにとても久々にミナト家に赴いた。賢いレイがいなくなって静かな家はますます静かだった。古びた居間、革張りのチェアの上に先客が座っていた。黒いクラシックなドレスを着て、古びていく時間を慈しむように青い絵柄の小さなカップでアールグレイを味わっていたのは荻原だった。
 エーコじゃなかった。小学生だったエーコは水色と黒の星柄をまとったカジュアルでポジティブな女子だった。
「荻原」と僕は呼びかけた。そしたら僕もいつの間にか「ナツオ」じゃなくなっていた。
「ホズミん」呼応する声と目鼻立ちのなかに互いのかつての姿を認め合い、黒と紅色で化粧してクラシカルな装いに変身したその人は、半分知っていて半分知らない未知と既知の中間の友達。

 同級生たちの言葉を盗み読みした一方、荻原との仲においてはそいった読解が不足していた。黒い洋装は荻原の意思表明だったけど、明瞭に良し悪しや好き嫌いを断定する言葉ではなく、荻原の視線の方向や包括した主義・領土を対話の空気に染み込ませる、遅効性の主張だった。
 無理解や不自由はない。でももし荻原が日記を公開していたら、どんな短文の簡単な記述であっても毎日読みたいと思った。

 そのころから僕は日記を記述する立場に回りはじめた。日記は、適当な縁で見つけてきた、どこの誰とも知れない一人の同い年らしい女の子に委ねた。彼女に向かって言葉を明け渡し、彼女も僕に言葉を託した。僕は彼女が荻原映呼だったら良いと思っていた。文通を交わし始めた相手がcelestaで、celestaも僕も同郷で、同じ亡霊を捜していたことは全くの偶然だった。
 確かに誰でもよかった。でも選んだ相手はとても良い人だった。今までに感じたことのないくすぐったい喜びが文通のなかにはあって、手紙を読み・書く僕は今日が人生で一番真摯であろうと努める。

 楽しかった。楽しかったけど、さびしさは毎日伴った。はじめはそれを会えない寂しさだと思っていたが、知らない人との文通という行為それ自体のナイーブさがそもそもの理由らしい。ナイーブさに背中を押されて、鍵をかけた日記帳にも書けないようなことを吐露した。
 セレスタは幻影で、セレスタに宛てて書いたものをあとで自分で読むことによって自分自身納得するために書いていた。さびしさのなかにそんな意味合いもあったのだと思う。

 

子供の発達って、親に出来事を語って、親に承認されることで、はじめてステップアップするみたいですよ。
出来事を経験する→経験を文章化して人に話す→発話した声を自分で聞く→親の反応がある→反応があってはじめて出来事の意味づけが完成する みたいで。
これ、子供に限らず大人になってもそうなんだと思います。
ネットで近況報告する人も同じなのかなって思ったりします。
自分で言うだけじゃなく、誰かの相づちがほしいんですよね。

 

朝のヒーロー番組を見た子が影響されてとても乱暴な言い回しをしてるのがきらいでした
○○だぜ とか 芝居がかったセリフとか 絶対漫画のなかでしか言わないような大げさな言い回しをしている小さい子を見ると、
誇張された嘘のことばをそういうふうに使っていいのかな と、すごく いやなきもちになりました
女の子もそうで すごくませた言い方と、過剰なボケ・ツッコミ、ドジっこ、?よ、?だわ みたいな、キャラが立った言い回しをします
もっと角の立たないリアルな言い回しのお話を子供に見せれば、過剰さにまみれてしまうこともないんでしょうけど、
でもだめなんですよね まだ子供だから、まずわかりやすいものを学んで、ゆっくり慣れてくんですよね
善悪 白黒 はっきりしてないと、子供は未成熟だから、人がヒトという生物になれるまで、成人に20年もかかるから、まだ飲み込めないから、しょうがないんですね

 

誇張されたなかで育ってくんですね。
はじめに白と黒があって、中間のグレーゾーンを20年かけてゆっくり馴染ませていく。
…つっても、高校生にもなってまだ極端なキャラづけから逃れられてないと思いませんか?
やられ役だとか、あいつは「残念」な奴だとか、レッテル貼って、まるで全部のものに役割を与えなきゃ気が済まないみたいですね。
まあ、僕が「やられ役」だから、ひがんでるだけなのかな…
「いじめ」られてはいないんですよ。やめろって言ったらやめてくれるし、心配だってしてくれるし、友達だと思うし、苦痛でもないんだけど、
でも僕がいることや友達が僕にやることの一連が「お約束」になってしまうのが、自分で自分を貶めてる感じがします。

 

でも、キャラが立ってないと輪に入れてもらえなくないですか?
自分でキャラを演じちゃうこと、というか、自分で自分自身の反応や返答を制御しちゃいます
○○さんっぽいとか○○さんらしいとか人に言われて求められるままにふるまってれば、求めた通りのいつもどおりの答えが来ることに、相手も安心するんじゃないかな とも思います
どこまでがキャラでどこまでが性格なんでしょう?

 

わたしはキャラになりきったらそんな迷いも終わると思ってました。中途半端に性格や性質であるところが残っているから、ひとりきりになって誰にも見られていないときでも自分の内省がわざとらしく思えて、まるで不誠実な演技をしているんじゃないかと迷ってしまうのだと思いました。すべての所作が考えるまでもなく自明であれば、パターン通りに過ごせたら、ことはシンプルで、わたしはシンプルで、だからそうあろうとしましたが、ボロが溢れそうです。

 

 いかに自分が安っぽいのか、ぺらぺらな自分に対してわたしが一番うんざりしているとせめて胸を張って言いたいけれど、薄っぺらさに平気な顔して今日も生きていられるということはわたしはそれに甘んじているのです。
 はじめることは簡単です。終わることは難しいです。飛び降りることよりも着地することのほうが難しいのです。

 

 まだ、空を飛んでいる。
 地に足つけず、どこにも腰を下ろさず、何も了解していない未分の状態にいる。
 どこにもいたくない
 どこにもいないでいい
 どこにもいない。
 すすんでバグに成り果てればスクリプトはわたしを離れるでしょう? ルールを守る気なんてないから、庇護を破ることが自由と同義であるなら、ほっといてください。どこにもいない。

 

 だからバグという意味で虫の名前なのかと思っていました。

「いや、テキトーな名前しかないよ。呼ばれているのがおれだと分かればいいんだから、場所が変わればニックネームも変わる」
『まえは別の名前だったの?』
「何度か変わった」
『もっと、ずーっと前はなにをしていたの』
「ネタバレになるよ」

 苦々しく言ったのかなんでもないふうに言ったのか真意はわからず、でもわたしにはこれ以上のことは語られないというのは確かです。

『どうやったらおしえてくれますか』
「セレスタ。これは等価交換じゃない。誰にとっても異質なんだ」
『わたしのこと知りたくないですか。わたしの、なまえ、こえ、ほんとのこと』
「きみは切り売りされない」

 なにかが私の頬に触れて、耳に触れて、髪の毛に触れました。

「おれはきみを買わない。きみはひとりだ。きみは減らない。そういうことを、ここまで綴ってきたんだ」

 力強くも、悲しそうに聞こえたのでした。

 

 夜の、窓ガラスに映り、水を撥ねて景色が通り過ぎ、休日の夜にしては下り線の車両は静まっていた。人々はまばらに座して黙り、違う方向を向いている。隣り合って二人組で乗車していたのは僕達だけだった。
 23区と報された震源地の地図を見ると彼女の住まいの殆ど真上だった。それについて、高層ビルの上階と自宅にいるのとのどちらが危ういか、判断は下せなかった。
 土曜の夜の中央線沿いの繁華街は酒の臭気に満ちていて、雨が人の笑い声や体温を吸い、アルコールと混ざってじっとりと停滞している。アーケードを経由して降雨を避けたが、アーケードの屋根の下に満ちた湿気は避けられない。

「何か買っていかない?」と塔子さんが言った。スラックスの裾が濡れて脚に貼り付いた。「明日の朝ご飯とか」
 閉店間際で閑散としたスーパーマーケットに立ち寄った。パン屋でホテルパンを買って(彼女はパンにうるさい。一般に流通している6枚切り食パンを避けている)ボトル茶と卵と牛乳を足した。小さな折り畳み傘ひとつではどう差したところで二人分の雨を凌ぎきることができない。
 繁華街を抜けて住宅地に入ると、途端に夜間の静けさが勝る。酔いの臭いが身を退いた静けさの隙間に、テレビの声と光、風呂場の音と光と石鹸の匂い、体温、寝室の光と消灯が家々から漏れ出して、他人の密な生活が囁きとなって感ぜられる。このうちどこかの家では揉め事の真只中かも知れないが、通りに流れてくる生活の音漏れは、隣の芝が青いように、どこか本当の生活よりも幸福で温かそうに聞こえた。いずれも僕には遠いようだった。

 彼女の親族が与えたマンションは、単身者向けの良い一室だった。オートロックつきの三階。寝室が居間を兼ねているありふれたワンルームには、文机と棚と椅子とベッドがあるだけですっきりと片付いていた。文机の上の小さな観葉植物の鉢が緑を添えていた。白壁に対してダークブラウンで揃えた家具はそつがないビジネスホテルまたは家具屋のモデルルームを思わせた。照明は和紙を張ったシェード。

「着替えたら? 干しておくから」

 折り畳みのローテーブルを部屋の中央に置いて対面し、ボトル茶で口を潤した。

「やっぱり、レストラン落ち着かなかったな。格調を気にしすぎちゃう」

 雨の音は先程より近く感じられ、通り過ぎる車が水面をかき分けた。飛沫を浴びてタオルを欲した僕に、彼女はシャワーを貸そうとした。そこまで世話になるつもりはなかった。なら、と彼女が先に浴室に入っていった。

 閉ざされた薄緑色の部屋のカーテンをくぐってベランダの前に立った。雨が窓ガラスに打ち付けた。冷えたガラスに額を当てた。身体はどこも火照っていない。
 目を開けたまま久々に夢想する。夢想には際限がないから普段は考えないようにしている。箱庭のミニチュアを指でつまんで再配置するように、夢想のなかで向かいの家々を取り払い、電線を辿って電柱を、鉄塔ごと吹き飛ばし、人々はそこに住まう家ともどもに満ち潮に流される。基礎は消え失せ、楔が解かれ、土地の権利が帳消しになる。文明を洗い流したあとは文明の痕跡も押し流す。そうすれば、そこには誰もいない。あらゆる住人、訪問者、魚、鳥、何も訪れない。そよ風を除いて水面を波立たせるものはない。空を除いてそこに映る色と形はない。それを見る僕がいない。絶対的な凪は僕の腹の中に広がる。腹をさすると貯水が波を立てた。それはコースメニューやワインや茶とは全く別の感覚である。

 いつまでも自分はここにいるということを知覚する度によそよそしい。何をしている時もふと、慣れなさを思い出して考え込んだ。考え込む自分に対しての疑念でますます考え込んだ。内省をはじめてしまうと時間はひとりでに流れてくれない。内省によって自覚的になる時の流れは今も受け付け難い。

 かつて募った気持ちも今や決定的に遠くにあるようで、希求していた頃の心理や動機を思い出すことは出来ても、ふたたびあれほど強く望み続けることはできない。欲していたものは無い物ねだりだった。今になってようやく無い物ねだりだったと分かった。だから今更子供の頃のように希求を繰り返すことはできない。

 諦めたのがいつだったか正しく思い出すこともできないぐらい、諦めはそれ自体が小さな意思決定だったとしても、ほかにありえた可能性であるところの進路も退路も遠ざける。諦めとは実行不実行以前の決定であり、諦めたいまとなっては、諦めを捨てなかった場合の人生を夢想することさえも上手くいかない。もしも、と仮定される希望の叶う方の未来を夢想のなかで辿ろうとしても、レールは突然終わっている。はじめから、あり得ないことだったのだ。
 そして諦めたにも関わらず、諦めきれてもいなかった。僕は諦めたにも関わらずあの凪を知っている。

 ほかに出来ることがないから理由なく生きているという日々は、生物にとってよそよそしい。夢想することを諦めると一般に人間として“現実的に”生きられるようになると信じられているが、その諦めは夢想の諦めであると同時に実際的な生活をも殆ど絶やしてしまったようだった。どうやら夢想が生活を誑かしていたのではなく、夢想の方が生活の根拠となる動力源だったらしい。きみはもう失われているんだよ。

 

 内とも外とも言えないシャワー音のどちらかが終わり、高橋塔子が少しカーテンを捲った。生活は息を引き取りつつあり、彼ひとりになって誰も答える人のいないとき、彼はここにいないも同然で、せいぜいのところ通過する風や水色を感じるまでだった。他者が現れると、生理反応として対話が生じる。彼は自分を知覚しない。ひとりでいるとき、彼は無人だった。
 ガラス戸にぴったり額を当てて黒く濡れる街を見つめる喪服の男に、塔子は温かいシャワーを促した。彼女は親切だと彼は思った。彼は義理を感じていた。いつかは義理を返済しなければならないと考えていたが想像すると少し恐ろしくなった。

「暗いですね」

 そういって再びガラス戸を選んだ。彼女の前では生活のふりをする必要がないことに彼は少なからず感謝している、濡れて張り付いた前髪のまま。
 そういうとき彼女は見つめることにしている。黙って。何も促さずに。すると夢想に導かれて無へと放浪する彼を、彼の中にいる諦めが冷たくあざ笑って押し留める。裏切りつつある生活へ彼は心細く帰還する。彼女がただ待っていた。彼はシャワーを借りた。
 耐えるという道を彼女は選んだ。すると彼は耐え切れなくなるのだ。泣き出した子供が疲れて黙り込むまで待つ母親のように、と、彼女は思う。不平等だと彼女は思う。でも、他にやりようがあっただろうか。彼の夢は生まれつき彼女の夢に反している。

 

 シャワーが聴こえはじめて、しばらく経った。彼女は席を立った。

「汐孝?」

 ガラスの引き戸越しに呼びかける。
 湯気に曇った磨りガラスの向こうにうずくまった人影がある。

「風邪ひくよ」

 シャワーが止まった。
 水滴がほんのひとしずく落ちた。彼女は脱衣所に座り込んだ。

 湯気のなかで境目がなくなった。背中や後頭部、自分の目では見えないところから身体が気化していくのを察した。もっと違うところに行きたいと彼は思った。どこへ行こうが一緒だとも彼は思った。どこへ行っても足りないのだ。温かくて冷たい。白い煙のなかを透き通りかけた手で探って、ドアノブを回して向こうに倒れ込んだ。
 空が青い。薄い白雲が渦を描きながら地平線へと流れてゆく。平らな風景が広がり、うっすらと張った水面は青空を映したが、絶えずそよ風が水面上を流れ、さざなみを立てて反射を乱した。
 自分だけの妄執だと考えていたその風景によく似たものが南米ボリビアに実在していたことを最近になってインターネットに広がる噂話を通じて知る。山中のその真っ平らな塩湖はいまや観光客の喧騒に覆われて、寂寥感などとうに失われているのだろう。ボリビアという異国を想像できない。人、町、歴史に目を瞑り、想像できないまま水色の風景だけを求めて押し寄せる人々は、想像できる。チーズ。家族。恋人。夫婦。笑って……。

 冷え込む。一歩を進める度に靴が砂を舞い上げて水面をかき乱して濁した。存在は存在するだけで空間の均整を汚す邪悪だ。いないに越したことはないと彼は感じる。自分が歩くというだけで、かき乱される水のなかに一体どれほどの均衡が損なわれていったのか考える。分子の声なき悲鳴を引いた気がする。

 廃墟は朽ちて蟻塚のように、土くれに似た姿で時折現れた。骨折し、白い塗装の禿げたパイプが瓦礫にもたれて突き刺さっている。二つ、三つ、四つ、五つと先が分かれ、複雑な曲線を描きながら異なる方向へ白い矢印を伸ばす青色の道路標識に、行き先を示す地名の表記はない。文字が剥がれたのだろうかと手を掛けて調べたら、瓦礫の小山はバランスを失い、崩れて足元に波を乱した。悪いことをしたと思った。ここで生じた波の不和はあの水平線の果てまで均衡を乱して伝播するのだろう。
 歩いて行けそうに見える距離に、オキナエビスに似た螺旋状にうず高く立つ瓦礫を見た。目標にして歩き出したが、直後足を踏み外して水の中に落ちた。浅瀬に穴が空いていたらしい。深みに落ちて、驚き、水の中で目を見開くと水中は遮るものがなくどこまでも青く、一体水が濁っているのかそれとも澄みきっているのか全く区別がつかなかったのだが、ただ、浮上することが出来たので、水面に顔を出して元の足場を探した。オキナエビスはまだ見えた。荒い息をついてどこか掴まれるところを探すも、水の中に浮かんでいるものはなく、浅瀬の方向も分からないので、オキナエビスの方を目指して慎重に泳いだ。泳ぐ時、前方の目標物を見て泳ぐと、水面上に伸ばした首の動きに呼応して背中が反って腰が沈み、下半身から沈んでいく。浮上を保つには顔を上げず、前を見ないで泳ぐことだ。注意深く疲れないよう、休みつつじりじりと泳いでいると、指先が何か硬質なものにぶつかり、身を翻すと木材と鉄を組み合わせたプレートが桟橋に似せた姿で水中に張り出していた。波はプレートの淵にひたひたと寄せて、あたり一面水を被っていた。プレートの上に四肢を投げ出して少し休んだ。寝転がって見た天頂は深い青空で、成層圏を透かした向こう側の宇宙の闇色が滲む青だった。潮の匂いのなかに温かさを少し感じた。寄せる水際が頬を撫でて髪を浮かせた。水の寄せるのを肌に感じている。感じ続けていた。鼓動する限り、鼓動は水に伝播して、水は永久に動きを止めない。肌は永久に水を感じ続ける。すると水がそこにあるということが当たり前の感覚になり、陸上にいる生物が辺りに充満する空気を意識していないように、水が肌に溶ける、肌が水になる。腹から背中へ筒状に閉じた皮膚が結ぶのをやめて水面へほどける。やがて水に溶けた身体は水平線まで伸びて広がっていく。ゆれるのは波ではなくおのれである。それは建造物の足元まで打ち寄せている。
 螺旋を描く建造物は思いのほかすぐそばにそびえていた。よい展望台になりそうな高さだった。光景は何のメタファーでもない。メタファーは嫌いだ。水だとか貝だとか遊泳だとかは、他の何にも例えられないし例えていない、それはそれ自体でひとつとしてそこにあるのだ、それ以上いらない。だからここには何もない。晴れやかな孤独だけが、視野の及ばぬ水平線のかなたまでどこまでも伸び、しかも薄まらないまま、白く損なわれないまま続いている。
 きりだとか、けりだとかいう区切りのない時間を経て、無限に広がる水面の連続から、ふと個体の我に帰った頃、立ち上がり、立ち上がる時に膝ががくんと折れそうになったので諦めようかとも思ったが、よろめきは一時的な不慣れのための疲れで、本当はひどい疲労でもなかったので、建造物へ歩みを進めた。

 水の中に飛び石のごとく用意された小さな足場の連なりが建造物へと導いた。桟橋からここまでの道程はさながら建造物に付属する前庭を思わせた。建造物に入口はない。足場になりそうなでっぱりが螺旋を描いて上へと伸びていた。足場は一面水を被っている。濡れた赤錆色の建造物に、光る青空が反射して、角度によって透かし階段は殆ど青色と区別がつかなくなり、足を踏み外しかねなかった。登り詰めた最頂部には、実は何もなかった。平たいテラスのような空間を想像し、期待していたことに気付かされる。何かを成せば必ず結果がついてくるということに期待し、報酬が与えられて当然だと思わされていた思考のパターンに気付く。答えはない。螺旋は螺旋を描き続けたまま、てっぺんで収束し、そこでおしまいだった。

 てっぺんは人ひとりならなんとか座れそうな平(ひらた)さがあったが、それは登頂者に用意された椅子というわけではなく、材料の都合や風化のためにたまたま椅子として利用できるような平(たいら)かさを持ち合わせただけらしいそっけなさである。椅子として機能しそうな平面には椅子として利用しきるには心もとない凹凸と不安定があった。

 しかし、座って、登ってきた道程を見下ろしてやろうとすると、もと来た桟橋が見つからない。目を凝らして不安定な座面の上をきょろきょろすると、桟橋は、先程よりも深く水を被って水面下に沈んでいた。雲が消えた。遮るもののない青空が頭上に広がった。天頂は闇に程近く青い。そよ風が時折水面に映る像を乱した。蟻塚はもうどこにもなさそうだった。そして座っているうちに今度はおのれがこの螺旋形の新たな頂部として椅子の上に癒着していってもおかしくないと、思い始めた。ずいぶん高くまで登ったものだ。そして長い間青空を眺めていた。海を見ることも空を見ることも殆ど違わなくなるまで見た。青空のなか、あちらの方角は空色がほかと比べて薄い気がした。色の薄い領域が地平線から天へと帯を伸ばしている。漠然と眺めていると暗闇に目が慣れるように青空の微細な差異の見分けがつくようになってきた。そしてそこに青空と殆ど違わない色のわずかにくびれた青い塔が確かに立っているのを発見した。

 空色の塔は不可視の水を組み上げて平らな風景の底に満たした。
 塔は仮想の浅瀬に点々と立ち並んでいる。数えて八つめの塔から向こうは、干上がって、または隆起して白けた砂浜が広がっている。砂浜のほとりに立つ塔のドアは潮風で蝶番が錆びているが、ノブを回せば誰にでも開かれる。雨の降りしきる屋上に繋がっている。
 夜で、都市であり、ビルディングに囲まれた屋上だった。降り続ける雨が街明かりのディティールをボカした。ひらけた屋上に繋がっている外階段を彼は登り詰め、無限に落ちる水滴を見上げた。着古したモッズコートが水を吸い、ズボンの裾が濡れて脚にまとわりついた。屋上にわずかにある庇の下で嗜好品に手をつけようとしたが、煙草も着火具も濡れてダメになっていた。他に何かないかとポケットをあちこち探っていると、いつかのバースデーカードが懐からこぼれ落ち、濡れてしまったのを慌てて内ポケットの一番奥底に仕舞い直した。バースデーカードは彼にとって一番大切な携行品で、共に旅を続けるうちに折れて角が取れて毛羽立って、インクもかなり滲んでいた。彼はまだ、バースデーカードをくれた女を特別に胸に秘めていた。
 傘を持たない人々が、めいめいのオフィスで夜から朝まで働いている。雨がやまない限り帰れないでいる。雨のなかをほっつき歩くのは常軌を逸した愚か者で、現にずぶ濡れの彼は役所にショウカイに行ったところだったがまるで相手にされなかった。しかし彼のくたびれきった姿と疲弊して険しい顔立ちでは、はれの日だったとしても怪しげな流浪者として煙たがられただろう。
 屋上のへりから景色を見やり、雨風を凌げるところを探した。街のマス目を仕切る建造物たちはどれも同じように青黒く押し黙ったビルディングで、ここから見える窓のどこかに羽を休められる暖かな一室が存在するとはまるで思えなかった。
 庇の下の蛍光灯が電気的な唸り声を上げて点灯した。彼は壁面のタンブラスイッチを落とした。再び蛍光灯が点灯した。彼は電気を落とした。点灯した。落とした。何度か繰り返した。

「こらこらこら(消灯)こら(消灯)らめるとでも思(消灯)

 彼は指の腹でオフの方向にスイッチを押さえ込んだ。それでようやく静かになったが、スイッチのオンとオフが逆転した。明かりが灯り、

「まあそう嫌うな、話を(消灯)

 パチパチパチパチパチパチパチパチ連打の応戦が繰り広げられた。

「告発しに来たんじゃない(消灯)
「まあまず話を聞け(消灯)
「話(消灯)
「ガキか(消灯)
「こんなに(消灯)チパチやっ(消灯)ら怪しま(消灯)だろうが」

 彼は手を止めた。

「おまえを捕まえたいんならとっくにサーチライトを持ち出してきている。しがない蛍光灯なんかに何が出来る。虫が集まってくるだけだ」
「火、点けられるか。煙草」
「火」

 蛍光灯に黒い線虫のような筋が走った。

「火とは、此方蛍光灯からもっとも縁遠い、まことの実体、光と熱の放射である。それを此方に乞うのは酷じゃないか?
 しかし火とは、焼却。焚書……火刑。戦火。解体。およそ、破壊者。おまえを追い立てる(消灯)

 オンとオフが逆転した。明かりが点いた。

「そう嫌うなって」

 男が不服の意を目で表した。
 光が二三の小言を語る間、彼はまた眼下の街並みを眺め、まるで無個性な街並みでありながら、等間隔に特徴的なビルディングが続いているのを発見した。屋根が尖っている、窓が大きい、貯水槽が目立つ、そんな差異である。建物同士を比較すると、それらは点々と同じパターンを保ったまま街の果てまで連続している。つまりはそれらしく組み上げた街のパーツをそれらしく体面良く組み合わせて縫い合わせた突貫工事のパッチワークの景観なのだ。
 同じ高さの建物が街の果てまで続いているなか、それらの風景を見下ろすことの出来るこの屋上を持ったビルディングは、周囲より頭一つ抜きん出た高さということになる。全てが同じパーツで組み立てられ、何らかの同じ規格と同じ高さを破ることのない風景の中で、たったひとつ特別な高さをもつこの建物こそ街の中枢ではないか。本拠地にまんまと誘き寄せられた不注意を彼は恨んだ。閃光に取り囲まれてもおかしくない状況だったが、頭上に灯るのは頼りなく瞬く蛍光灯ひとつだった。彼は、隣のビルディングの窓の向こうであくせく働く人々も、ビルディングの外観と同じく数パターンしか用意されていないのではないかと、嫌な考えを思い浮かべた。

「でなんでこんなところに」と蛍光灯。
「道に迷った」
「何とかと煙は高いところに登るのか」

 鳥の兄だからな。言おうとして止めた。それはあとからの創作だった。

「おまえは、まだ旅をする気か」

 煙草を吸えない彼は代わりに似た呼吸法を試みた。呼吸と脈拍はこの身体の維持であり、光たち存在との決別を意味している。彼が身体に固執するのは彼が人間として生まれた生命であると自分に言い聞かせるためだった。

「雨風を凌げるところを探している」彼は言った。
「ここにはどうやって来た」と光。
「朦朧としていて覚えてない」
「何しに来たんだ」
「探してた」長い吐息をする。「おれの」
「あると思ったのか?」
「いま思うと、ねえな」

 誘き寄せられただけだったんだと思った。早くここから出なければ。しかし疲労も事実だった。足先から身体が冷えていく。この身体。この疲労。生きている実感の湧き上がるときは緊張・興奮・疲労のなかにいる。すると生きている実感というのは身体に悪いのではないか? 生きている実感とは、生命を焼き尽くして死に向かう実感である。
 自我と身体を捨てれば雨風からも疲労からもおさらばできるのだが、身体を捨てて光たちのような分子に解されることは、身体を持って生まれた彼にとっては死と変わりないように思えた。死んだその瞬間の記憶を彼はまだ持たないので、彼はまだ生きている。死は寒くて深い穴に吸い込まれることだった。「苦労のない 穴に さようなら」と、サルはタイプライターを叩いた。穴の淵に他者を突き落としたとき、銃口から脳へ逆流した冷たさを彼自身は覚えていない。
 足元から両肩へ冷えが走り、彼は身震いし、くしゃみを放った。
 光がこのつぎはぎの街の由来を語っていたが、考え事に頭がぼんやりしていて聞き取れなかった。頭はますますぼんやりして、考え事もじきに中断した。寒さが瞼を閉ざしにかかる。

「早く」

 声を荒げたつもりだったが、思っていたよりも声量が足りない。変に行儀良く聞こえた自分の声が、奇妙に感じられながら、彼は続けた。「こっから出せ」睨みつける目の鋭さは変わらない。

「もちろんそのつもりだった、おまえがパチパチやるから……」
「おまえは誰の味方だ」
「味方」

 光が反芻。間をおいて語った。

「此方は『上』に含まれるが『上』は味方ではない」
「ボスには従うがボスは助けてくれないって?」
「従いはしない。『ボス』と呼ばせて貰えれば、この光はボスに含まれている」

 末梢神経か働きアリだ。やはりこいつらにはなれない。

「まあ、なんだ、怖い顔すんな。此方だって上から仰せつかってわざわざおまえを追ってきてはいないんだし、おまえはおまえが思うほど特別な癌細胞でもないのだ。おまえなんてものは、まあ、良性腫瘍だ。誰にでもある、おまえ自身にもある。おまえが小学生のときにその存在に気付いた、おのれの首筋の奥に埋まっているやわらかいしこりみたいに……」
「なんで知ってるんだ」彼は吐いた。誰にも言ったことねえぞ。
「すべてを照らす、特別に注意は向けない」
「おまえらって区別あんのか」
「人のような固執はしない。此方は分割されて偏在する量である、おまえの縋る入れ物はなく、区別があるとすれば位置と量だ。そして、本日のことを上に伝えないようにも出来る。おまえと出会ったことを切り離して忘れてやろう」

 彼はぽかんとし、意図を探ろうとした。

「おまえが考えているほど此方はおまえの思う冷淡な機関ではないし、おまえが考えているほどおまえに特別な価値はないが、おまえはぷらいばしいを気にするようだから、此方にはまったく必要のないことではあるがおまえが出会った此の光を切り落として記録を遮断してやろう。
 だから振り返って辺りを見渡すがいい」

 と言うので咄嗟に言葉に従って振り返ると、雨粒が止まり、白い梁で組み上げられた隙間にガラスをはめた高い壁がそこにあり、視界の端がぴかっと閃光を放った。光の方を振り返ると蛍光灯と庇と非常階段の姿はなく、亜熱帯の植物が大きな枝葉を広げていた。

 天井はガラス張りの高いドームで、低く唸り声を立てながら水銀灯が煌々と輝き、ガラスの向こうは夜だった。静けさのなかに照明の唸りと、夜の虫の囁きや、落葉の音が混ざり合い、人のものではない鬱蒼とした騒がしさを感じられた。湿度が篭っていたので、ここでも靴は乾かなそうだった。
 小道の両脇に枝葉が迫り、太った幹に蔓が這っている。露出した土はたっぷりと水を吸って膨らんでいた。植物の吐息が絶えず首筋に吹きつけられているような気がした。広大な温室のなか、人混み同然の気配が漂っているように思えて、首筋に手を当てて皮膚の下を探ると、種子ぐらいの大きさの柔らかいしこりが埋まっていて、彼はこの瞬間までまだしこりがあることを知らなかった。ゆるやかに曲がる径を行き、濡れた地面を踏みしめて緑のアーチをかき分け進む。祭日のような赤い花が集まって咲く一角を通り過ぎた。エリアごとにテーマかルールがあり、生息地の気候や大陸によって植物たちが区分されている。ここにある草花のうちいくつかは、野生でその姿を見たこともあったのだろうが、彼はいちいち覚えていなかったから、仮に再会があったとしても分からない。
 公園ほどの広さを歩いたが、誰の姿も見かけない。歩くことは好きだったから彼は少し回復する思いがした。靴さえ濡れていなければ上出来だ。しかし蒸した温室のなかで喉と唇の渇きはごまかせず、酸素も植物たちに奪われて充分量に足りていない気がした。

 温室を縦断して辿り着いたのは、礼拝堂を思い起こす開けた空間だった。突き当たりの左右に高木が聳え立っていて、向こう側は高いガラス壁で行き止まりである。ドーム天井に向かって真っ直ぐ伸びる透明な壁面がステンドグラスに似ていたというのと、木々が途切れて開けたところに腰の高さほどの花壇が等間隔に並んでいたから、結婚式の参列席を連想した。花壇は、広場を突っ切る仮想のバージンロードを避けて間隔を開けて左右二列に配置されていた。司祭が水遣りしやすいように導線が確保されている。そこには多肉植物が並んでいる。見慣れた形のサボテンからサボテンのなかの珍種、鞭のような葉をしならせる草木、女性器を彷彿とさせる切れ目をもった肉厚の植物。石にも肉にも似ている塊が、それぞれの差異に名札をつけていた。名札は几帳面な手書きの文字だ。
 最前列の中央、司祭か花嫁の立つべきもっとも神聖な一角、他の花壇から一歩前に出たその位置に、芽を出すように半分土壌から露出していたのは、手の平大のタカラガイの貝殻だった。
 植物の気配だと思っていた野生への畏怖の念が、たったひとつのタカラガイによって、ひとりまたは数名の名前を知る人物に収束した。謝らなければならない相手が何人もいた。後悔と謝罪の亡霊が霧になって服を湿らせる。
 貝の裂け目を耳に当てたが、静寂から何かを聞き取るためには照明と植物がやかましい。貝の背後の壁面を探ると恐らくは電灯に伸びているスイッチがあった。照明を落とすと、1秒かけて、温室は闇に転じた。静寂も訪れた。
 彼自身闇に目が慣れず、順応を待った。明かりを消したことで温室の外が照り返しなく見えるようになった。ここはなだらかな高台の頂上のようで、遠くに街明かりがまばらに見える。街明かりがやたらとぼやけて見えたので、目をこらすと窓の外では霧のような雨粒が落ちることなく静止していた。手を伸ばして周囲を確かめながら、伸びた長い葉に身体を引っ掻かれたりしつつ、彼はタカラガイのもとに戻った。闇のなか、陶器に似た質のつややかで丸い貝殻が、暈をまとうほどの白さを発していた。もう静寂だから、声は聞こえるだろう。少し歩くと小高い丘に築いたタイル貼りの一角に誂え向きの白いベンチがあった。そこから花壇を見晴らせる。並んで座って、そして、何年経ったのか考えた。時と身体の隔たりは、血を分けたふたりの会話をぎこちなくする。

「げんき?」貝殻の隙間から漏れ出るさざなみが、よく知るひとりの声に収束する。
「まあ、んん」
「そっか」
「ああ」
「生きてる?」
「生きてるよ。まだ、しばらくは」
「よかったと思う」
「ずっとそこに埋まってたのか?」
 貝の声はちょっと笑った。「そういうことじゃないだろ」
「分かってるよ」

 貝の相手の微笑のしかたを彼はよく覚えていた。おずおずと照れくさそうに、少し申し訳なさそうに笑うのだった。なんなら真似することも出来た。同じ血が流れているというのに顔立ちは全然似ていないけれど。
 闇に目が慣れて、青黒く茂る異国の森の姿がふたりの前に映し出された。

「元気そうでよかった」貝は言った。
「何してたんだ」彼は返した。
「ベランダで、月を見てた。風が吹いてきたから、鉢植えの様子を見ようと思って」
「おれは……迷ってた。ヘンなポケットに入り込んでんだ」
「出られるの?」
「どん詰まりだと思う。けど、まあ、迷ったのは枝葉に過ぎなそうだ。どうにでもなるよ。おれはしぶといし、別に、今はボーナスステージみたいなもんでさ」
「そうだね」

 ここはおまえが作ったのか? そんなことも訊けなかった。時間のなかの無数のポケット、どれが本流なのか流される者には分からない、分岐して閉塞する数々の時間の流れに洗われるひとがいる。
 彼はものすごく悲しくなる。酒を、貝の硬い口に並々と注ぎ込んでやりたい。貝を器に杯を交わそう。酒のことを思うと温室の喉の渇きがふたたび目覚め、彼はシャツのボタンをゆるめて顔を手で扇いだが、貝は室温を感じない。月が見えないものかと天を仰いだ。曇り空の夜の青い雲が明暗のもやになって天を覆っていた。月の光は見つからない。ドームの梁がほの白く天を渡すアークを描いて、むかし見たプラネタリウムの半円の宇宙みたいだった。頭上をわたるドームの輪郭線のおかげで、ここが未開の密林なんかではなく、どこかの温室のなかであると判断できた。赤い花が咲いている。温室は閉ざされている。入口も出口も分からない。
 僕は固められた周遊道を道なりに歩いていった。あたりは夕暮れ直後のように一様に青黒い。終わってしまう、間に合わなかった、これから歩き出したところでもう手遅れだ、そんな強迫観念に囚われる。
 植物たちはめいめい好き勝手にガラスの部屋のなかで枝葉を広げていた。それらは朝の満員電車に詰め込まれて苛立ちながら縮こまる人々のふるまいとまるで反対で、ひたすら自由であろう、自分のために枝葉を伸ばそうと、押し除けたり身をかわしながら、どこまでも広がり続けてやろうとする上向きの強かさを感じてならない。どんな日陰の草木でさえも、溢れるほどの繁殖の意欲を惜しげもなく広げている。そんなわけで、植物の力強さに圧倒されないようにしながらその合間をくぐり抜けるには、ある種の覚悟が必要だった。
 心細さ、頼りなさを抱え、行く手を覆うばかりの植物を掻き分けていくと、突然に茂みは開けた。開けた場所に花壇が整列し、タイル張りの高台の上の白いベンチに座っていた男が突如立ち上がり手に持った何かを突き出し、僕はとっさに両手を頭の高さに掲げた。遠くてよく見えないが、ハンドガンを向けられたと思った。
 
「うわあ、何、どうしたの」のんびりとした男の声が聞こえた。
「なんでもない」銃を向けた男が返した。銃は、親指と人差し指を突き立てたジェスチャーでしかなかったが、仮想の銃口を向けられた瞬間、胃が冷気で鷲掴みにされた。

 僕は両手を掲げて棒立ち。

「わあびっくりした。誰のお客さん? きみのほうだね、形がある」

 のんびりした調子で喋っているのは銃を向けた男ではない。銃の男は親指と人差し指による警戒を慎重に解いた。「迷子だろ」と呟く。

「クセは治らないんだね」
「染み付いてんだな」

 男はベンチの座面に置いていた純白のタカラガイの貝殻を掴んでこちらへ降りてきた。もうひとりの声は貝殻のなかから聞こえた。

「もうそろそろ出るか」

 男は貝に尋ねた。

「閉館の時刻だ。迷子も連れて帰らなきゃ」
「おふたりは、どちらから?」僕は尋ねた。
「おふたりだって」貝は笑った。茶化すようにも、嬉しそうにも聞こえた。「おとなりから来たんだよ、それぞれ反対側から」
「こいつはここから離れているんだ」男が貝を指して説明した。「この外にいる」
「ここは?」
「見てのとおりの植物園だね」
「おふたりが管理されてるんですか?」
「管理はしてないな」と貝。
 生身の男はつっけんどんで、貝殻の中にいる方が話好きで喋りたがっているようだった。
 月明かりに照らされた闇の植物園を、僕ら二人と貝が歩く。来た道とは異なる整備された径を貝が男に案内する。熱帯の睡蓮を見ていこうと言った。

「夜咲睡蓮が咲いているんだよ、滅多に見られるもんじゃない」

 貝は楽しそうにしていたが、貝を持つ男は特に感想なしといったところで、改めて見ると彼は全身ずぶ濡れで、憔悴したふうな険しい顔をし、とてもねぎらいたくなった。貝が男を先導し、僕は後をついていった。貝がこの植物園を把握しているのだった。通りがかるたびに貝は植物の名前と植生、由来、葉のつき方や花の形などの観るべき箇所を誇らしげに語った。僕は貝の博識さに感嘆した。

「誰にだってきっとそういう場所はあるんじゃないかな」
「特別に詳しい場所ってことですか?」
「いや、集めたものをしまっておく場所」

 ねえ? と貝は男に尋ねた。
「どうだろうな」と男。

「気づかないだけだよ。だれにでもある」と貝。「きみはどうなの?」

 僕はいっとき逡巡して言った。「途中なんだと思います」

「ある人は墓標の立ち並ぶ終着の浜辺だと言った。ある人は演劇が延々と繰り広げられる見世物の街だと思った。水の底に沈んだ青い静寂の世界を思う人もいた。絵画のなか、森のなか、ひとつの国家と大陸、温かい書庫の埃、みんなのなかみを足していくと地上の面積よりもきっと広いんだろうね」

 温室内のプールに赤紫や青紫の花がぽつりぽつりと開いていた。濁った水のなかには金魚やネオンテトラが潜んでいる。
 睡蓮には品種の名前が当てられている。「カノープス」は柔らかいカーブを描いた白い花弁、「ブルー・モーメント」は尖った青紫、「スカーレット・ルビー」は赤紫、「カストル」は青みのかかった白い大振りの花。

 ずぶ濡れ男は赤い花をじっと見ながら「仏のアレは、ハスだっけ、睡蓮だっけ」と貝に尋ねる。

「同一視されていたようだよ。仏教には白・赤・青・黄色の蓮華が登場するけれど、青い花は熱帯性の睡蓮にしか咲かない。インドには混在していたようだね」
「ハスと睡蓮はどう違うんですか」
「見た目に限って言えば、ハスの方が背が高い。元気なところだと水面から1メートルか2メートルも伸びるよ。泥の中から背伸びして美しい花を咲かせるのが、仏の教えに通じるらしいね」

 青い光を翻して、しらすほどの大きさのグッピーみたいなのが茂みを泳いだ。

「ずっと見てたい?」

 ずぶ濡れの男が尋ねてきたので、驚いた。「ずっとここにいたいか?」冗談と冷笑の交わった声だった。
 僕が返事をできなくても、彼は悟って言葉を続けた。

「だよな、誰かの中になんているべきじゃない」

 貝殻は押し黙った。

「覗き見るものでもないさ。景色は据え置きで、どんなに広くてもひと一人分の余地しかない。他人の風景を見たってそれはそいつのための風景だし、何考えてんのかなんて言葉と仕草で伝えるしかないよ」

 次のエリアは食虫植物だった。ハエトリグサは二枚貝のように進化した葉で、葉にとまった虫をパクリと挟んで捕まえるが、面白がっていたずらにパクパクさせていると株が疲労で枯れてしまう。捕食に要するエネルギーが餌から得られるエネルギーを越えてしまっては本末転倒なので、食虫植物の大半は粘液や消化液でトラップを作って虫を待ち構える戦略をとっている。
 虫取りスミレという種の葉にショウジョウバエが多数付着していた。ハエ取り紙やゴキブリホイホイのように、葉から粘液を出して虫を捕まえるのだという。植物たちは消化液に濡れててらてらとなめらかに反射していた。葉の表面の赤いまだら模様が怖いと思った。虫を待って動かない食虫植物たちからは、生きて動き回る肉食動物の生態よりも直接的な死の気配を感じた。

「グロテスクというのは動植物装飾が由来だ」と、貝は満たされた様子で語った。
「すごいですね」僕は引きつっていただろう。
「集めることが好きだった。多肉植物の小鉢を庭に置いて、無理を言って庭に小さな温室もこしらえてもらって、母の花壇の面倒を見る代わりに好き勝手にしてもらえた……何だって集めたかった。鉱石と図鑑を引き出しに溜めて、水槽で魚を飼って、地図帳をえんえんと読み返して、星の名前と石の名前を覚えて……生き物の名前、年表、坂道、譜面、水の浸食、飛行機、筆記用具の種類……おのれの周りの豊かさを祈り、集めて、集めて、ひとつの知識の城を築き上げた」

 ウツボカズラが天井のあちこちから垂れ下がっていた。

「僕はたった一人の王様となりはてない増改築に心を奪われた。しかしじきにとうとう同じことしかやっていないんだと気が付いた。何を集めようとも、集めて築くという営みはすべて読み書きの形をしていた。知識の城は言葉の塊だった。現実存在を言葉による定義と説明が埋め立てて、存在は書物の言葉で伝達されるから、言葉を押さえていれば現実を掌握した気になってしまっていた。言葉自体には何の価値もない。言葉は材料、絵の具に過ぎない……何の絵の具を使うかよりも、何の絵を描くか、だよね」

 びしょ濡れの男が何かを言った。貝は申し訳なさそうに振り返った。「きみが見てきたものを知る術だって言葉だったんだ」

「貝殻は常に裏側を向いている」

 男に手渡され、僕ははじめてタカラガイに触れた。陶器のような手触りだった。生き物だとは思えないし、自然物だとも思えない。

「この模様のない真っ白な表面は、裂け目から裏返したタカラガイの内側だ。貝の模様は内側にあり、無地の裏側が外気に触れている。ということはこの白い裏側を見ているおれたちは貝の内側にいるんだ。こちら側にあるのは閉塞した貝殻に縮こまっているぶよぶよした不確かな肉だ。おれたちは貝殻の内側にいて、外の世界は、この貝の口の向こう側にある」
「それで」と貝が遮った。「タカラガイは外套膜という貝の身の一部を貝殻の外に出している。生きているときはやわらかい貝の肉が貝殻の表面を包んで覆い隠している。肉が貝殻を守っている。もういちど表裏の逆転だ」

 ガラスの門が開け放たれた。僕は促されて外に出た。高台に建つ植物園、丘の下に僕らがよく知っている生まれ育ったこの街が見える。明かりのひとつひとつが知らない誰かの家で、既に眠りについた部屋にひとり静かに灯る常夜灯か、玄関先で住む人の帰りを待つ光のしるべか、静寂の時刻に耳を澄ませて孤独な作業にいそしむ人たち。遠く東西に明かりのない闇の一帯が街を分かち、それは深夜の川なのだった。それは亀裂で穴だった。つややかな闇によって隔たれていた。

 温室から男が外に伸ばした手は、外気に触れた途端、雲母の表皮が剥がれるように目に見える風景から剥離して消えた。男は驚かなかった。手を引っ込め、植物園の湿度のなかで男は人の姿を取り戻した。凝視してしまう僕に「そんな顔すんなよ」と言う。
 眼下には僕らの街があった。家は川辺に立っている。闇のほとりで待っている。
 僕は男の銀色の瞳をはじめて見つめた。どうして彼は出られないのだろうと考えてしまうと際限なく悲しくなった。男はタカラガイの裂け目を耳に当てた。波の音が聞こえてくる。終着の浜辺で待ち合わせている。

 僕は坂を駆け下りた。足がもつれ、実際に時を刻む1秒の速度と僕の体感の時間経過が合致しなかった。時間が速いのか僕が速いのか僕には判断できず、ただ時間が僕から剥離して、僕が時間から振り落とされる。速度を上げる、足がもつれて転びそうになる、浮遊感に近い危うさを覚えながらそれでも走ることを止められず、喉の奥に血の味が滲んでいる。じきに大粒の雨に降られ、バスを降りた。

 

「塩水のプールに過ぎませんでした。汲み上げていただけだったんです。地平面のように見えて結局どこにも繋がっていない」

 そして、寒いと一言囁いた。

「束の間眠っていたようです」

 脱衣所に上がる彼のために、彼女は退いた。

「本当は入浴中に眠らないんだよ。気絶してるの」

 風呂から上がって鼻をすする彼に、彼女が告げる。

「夢って、頭のなかに流れる映画を睡眠時間分だけ見ているんじゃなくて、夢から目覚める“瞬間”に構築されてるって説もあるんだよ」

 その瞬間なにもないところから、夢で流れた時間を「思い出す」ように現れるの。どんなに長い冒険を味わったとしても経過した時間はほんの一瞬で、夢とは、眠りという機能停止から復帰する跳躍の一瞬に、0から1への移行の摩擦抵抗で発するスパークのような誤作動。
 1から0なのではないかと彼は思った。

 目を瞬(しばた)かせる。彼女の髪が濡れている。借りた寝間着から他人の家の匂いがしている。

「また、今度はいつまで、いるんですか」

 彼女はドライヤーを髪に当てた。長い黒い髪。大きな音が会話を遮った。ひどく静まった部屋のなかで、会話を除いてあらゆる物音が荒く迫った、ように、彼は思った。

「どうだろ。むこうは楽しかったよ。言葉が通じ合ってるのか、本当に滞りなく伝わってるのか分からないけど、それでもそうやって抵抗があるせいで日本よりも堅実に話をしていると思った。水の中を歩いてるみたいに、毎日鍛え上げられてる感じ」
「難しそうだ」
「読み書きはできるのに?」
「途方もない」

 彼女はタオルを彼に投げ付けて、ふざけて犬猫と触れ合うような手つきで頭を包んでごしごしと拭いた。彼はぎゅっと目を瞑った。濡れた毛束を彼女が逆立てて、頭髪の流れの遊びを作り、いかにも今っぽい若者風の髪型に仕立てたのち、申し訳なさそうに笑って手ぐしで元に戻した。

「できるよ」

 彼女は言う。

「少し見て回るだけでも悪くないと思う。遊びだっていいんだよ。グアムとか、パラオとか、日本とはまた違うでしょ」
「寒いところの方がいい」
「いいと思う。とにかく……ここを離れてみるのも、悪くないと思う。試してみたら? ほんのちょっとの間でも」
「試しなら、いいんですけど」
「試しが本当になってもいいじゃない」

 彼女は彼の秘める内奥の実りを望んだ。イマジネーションを絶やしてしまわず、インナーワールドがいっそう豊かに、鮮烈に現れるよう、つまり彼の頭のなかで留めずに創作の手を借りて現世に現れるように願った。どんなやり方でも逃げ口が必要だと彼女は思った。溜まった水は抜かなければならない。今の彼は耐え抜いた末に口から吐き出すことしか知らない。創造に向かうよう彼女は願った。身体を痛めないやり方で吐き出せるよう願っていた。おのれの秘める妄執を昇華してきた歴代の芸術家たち。手付かずの生(なま)の妄想は灰汁と棘だらけで誰も触れることができず、邪魔な社会悪であるだけだった。いびつで醜悪な個人の内奥を、誰でも見て触れるように形を整えて一般化できれば、創造の名の下に妄執は多様性の理念に迎合される。
 創造はいつでも奨励される。しかし創造には摩擦抵抗がある。

 頭のなかで思い描けるものには本当は形がない。実のところ想像の輪郭は不定形である。とりとめのない考え事を文章に書き出そうとしてみると難しいのは、頭のなかで紡げる形状や言葉は、それ自体の意味もあいまいであれば関連する別の単語やアイディアといった意味との境界線も不可分だから。思考は一本道ではなくこんがらがった糸のようで、はじまりと終わりがどこにあるのか見分けはつかない。
 想像を発露することは、こんがらがった糸の塊に鋏を入れることだ。不可分な糸にはじまりと終わりを与え、直線たる一本の糸を塊のなかから引っ張り出し、一つの文章、はじまりと終わりを持ったひとつのまとまった意味を成形する。すると糸くずの中に半端な長さの余剰が見つかる。当然だ。はじまりと終わりが不明な塊に鋏を無理矢理に入れて、塊から一本だけ抜き出したのだから、鋏を入れそこねた箇所が余る。頭の中の無秩序を整頓することなしに創造はできない。頭の中の無秩序はひとが見るに耐えない。たぶん、他人の見た夢を追体験したら、夢の出来事の無秩序さに気が狂いそうになるだろう。自分が毎晩似たような混乱を味わっているとしてもだ。
 糸を切り取ると糸くずが残る。同じ塊をなしていたのに、生き残るものと切り落とされるものに分かれる。ひとつの文脈のもとに糸を紡いだとき、切り離された糸くずの方は、多重に重なっていた意味のなかで選ばれなかった可能性の墓場だ。
 創造によって生じるありえたはずの可能性のロストを、彼女は冷静に受け入れられた。彼は拒んだ。だから彼は言及を避けた。うまく言えないから。うまく言えなかったという自分の落ち度で、ありえたはずの可能性を貶める事態に絶望した。

 台本を読んで想像した身振りや手振りは、頭のなかでは完璧に思える。台本の内側にあるうちは、役者には非の打ち所がない。でもいざ台詞を発声してみると、想像上に見たあの完璧な声と振る舞いに、自分が程遠いことに気付き、最初はもどかしい。
 頭の中には優秀な補完機能が備わっている。想像の輪郭は常にあいまいであるのに、感覚は多重に引かれたあいまいな輪郭線から最良の平均値を描き、あたかも頭の中で知覚しているうちは明瞭であるかのように見える。ひとたび外界へ向けて想像を発露させると、そのときようやく己の詰めの甘さに気付く。あなたの想像が貧困なのではなく、頭の中の補完機能が優秀なだけだ。むしろ、頭の中には常にもやがかかっているようなものではないか。想像は霧がかったシルエットであり、本当の姿は外界に発露するまで分からない。何度も発露を試みて、練習を重ねて身振り手振りを磨き上げ、霧の中の塑像を練り直し、他人にも見せられるように強固な輪郭を作り直す。
 その過程には完成を見送った塑像もあった。採用されなかった色と形、諦められた形態があった。それら、可能性の幽霊を、彼女は避けられない犠牲だと考えていた。彼は、常に幽霊の方が正しかったのではないかと、いま生きている方の自分を訝しんだ。彼女は、常にいま打ち勝って現れている方こそ正しい選択だと思っている。覚悟を決めて未来を目指す足取りに迷いはない。

 パラオ。あまたの無人島のひとつにジェリーフィッシュレイクという塩湖がある。周囲の海から12,000年のあいだ隔てられた湖のなかで、クラゲは群れをなして独自の進化を遂げた。人間を刺すことのないクラゲの群れのなかを、訪れた人は共に泳ぎ、クラゲを手のひらにすくうことが出来る。
 エメラルド色の水中に、明るい橙色の透明なピンポン玉たちが群れている。あたり一面にクラゲたちが漂って、水に浮かぶ人の肌をくすぐる。ここにいるゴールデンジェリーフィッシュの触手は退化していて、肌に触れても刺胞毒を受けない。
 湖のなかにはムーンジェリーフィッシュという名のミズクラゲの一種も生息している。ゴールデンジェリーフィッシュは日中水面近くを反時計回りに回遊する。水深深いところに暮らすムーンジェリーは夜になって水面に浮上する。クラゲのほかには魚類とカイアシ類が生息している。クラゲたちの生きている水深15mまでの層は生物活動のために少し濁っており、透明度は5m程度である。
 水深15mを超えると湖は形相を変える。水深15m程で湖内の酸素濃度はゼロになり、水深15〜17mの層では嫌気性の紅色細菌が光合成を行っている。太陽光はこのバクテリア層によって殆ど遮断され、バクテリア層から水深約30mの湖底までは、透明度は高いが非常に暗い無酸素層が広がっている。無酸素層は硫化水素を含んでおり、生物の姿はなく、侵入したダイバーの肌を傷付けるため、水面近くのシュノーケリングを除いて遊泳は制限されている。

 ある出来事が真の意味での創造であれば、それだけで、どれほど常軌を逸した暴行も創造となり昇華される。それは厳密な観点でそれが本当に創造であるときに限られる。もし本当に創造であれば、何かを正しくそこに表明することができれば、それを正しく表したために罪悪は創造のもとに許されるだろう。なぜなら、創造は継承される。ある種、カルテのように引き継がれる。新しいカルテを求めている。
 新しい難病は記録されるべきだと、彼女は彼以外の人間のためにそう願った。類稀なる創造の御加護で彼が許されますようにと、彼一人のためにそう願った。本当のところ、私ひとりで彼の記録は務まらないから、自分自身のためにそれら科学の体系へ願いを託した。

 

 壁紙は、明かりを絞った室内灯のため、電球色にあかく温かい。

「試しなら、いいんですけど」
「試しが本当になってもいいじゃない」

 と言って試しに単身国境を越えていけるような人だ。
 目的地がまるで思いつかない。水鏡の塩湖もパラオの塩湖も、足を運ぶ程ではないと思った。あまり、旅行への欲求がなかった。父と母の行きたいところに僕は着いて行った。僕の単純な欲求はいつも「海」と答えることしか知らなかった。

「考えたこともなかったんです」
「でも、孤独になるのが嫌ってタイプでもないでしょ」
「そうですね」
「身体が不安なの?」

 それも、考えたことがなかった。「そうだとも思います」

「気分転換になればいいって思ったの」

 僕は青い塔の続きを空想した。
 黙り込んでしまう。強い風が吹き、背後の窓ガラスを風雨で揺らした。
「ひどい雨」窓の戸締りを確かめようと、彼女が窓際に移る。
 青い塔のことを考える。
 彼女がいるうちに言わなければならない気がする。

「嫌ではないんです」

 背中を向けたまま彼女は困る。
 言わなきゃ分からないと敬司くんは言った。

「僕は恨んだりしていない」
「それに」
「何をしたいのか」

 言おうとしてすぐ言葉に詰まった。

「どうしたの?」

 怪訝に思って振り返りかけた彼女を制した。

「あの、出来れば相槌を、うたないで、振り返らないでください。言おうと思うんです。少し考えることになると思うけど」

 耳が熱くなり、気が落ち着くまで僕は黙って静寂を待った。
 窓に打ち付ける雨の緩急には、心なしか均衡を感じた。
 かねてより出来る限りずっと黙っていたかった。語ろうとして思い出す度に本当の気持ちは上書きされてしまうのだから、一切触れずに沈黙の中に封じておく方が、あの風景に対して誠実だと思っていた。僕は僕の病質を恥じてはいないが、僕の語ることの不出来さを恥じている。いつも伝えきれないことがあること、次第に声の上ずりいくことを。

「美しいんです。僕の風景は悪くない。晴れている。透明で、青くて、水が寄せてやわらかい。風が吹くとさざなみが立って、打ち寄せて、日の光に輝いて、とても美しいんです。本当は皆に見せたいし、本当は貴女にも見せたい。
 でも、誰もいなかった。
 誰も来なかった、ずっと待ってたのに。
 遊ぼうと言った。だからこれからもずっと一緒だって思ってた。今日と明日は連続していて、明日も遊べるんだと思ってた。
 でも、誰もいなくて……何もなくなった。たくさんいたんです、最初は。カイメンと、ウニと、エイと、ウミエラも、ケルプも、クジラも、アジも、ホウボウも、ウミネコも、僕がまだ名前を知らないものもみんないました。“すべて”がいたんです。“すべて”は数え切れないすべてだった。すべてがいるのだからまた会えると思ってた。でも次の日から誰もいなくなった。
 目を凝らしても誰もいない。僕が損なったんだろう。空(から)になった海だけが波を立てて揺れていたってそこには何の密度も姿もなく、無限よりも豊かに見えていた海は、一切の生き物を失っていて、それで透明度が増そうが虚しいばかりだった。僕はこの虚しさに耐えたくない。海はもっと生きていて死んでいてやかましく遊んでいる筈で、こんな、誰もいない偽物の海をこれ以上目にしたくない。見ていられない。それも、僕が見てしまうから虚の幻覚がそこにあるというなら、僕の落ち度なんです。僕が見なければよかった。
 僕は止めにしたいんです、塔子さん。何もない海ならいっそ、誰も見ないようにして、…………死んで…………滅ぼした方がいい」

 

 約束を守り、相槌なく、手を伸ばして薄い肩に触れた。彼は目を上げなかった。その言葉にはほとんど頷けなかったが、擦り切れて読むことのできない古の石碑のように、重みだけを受け止められた。

 

 水溜まりに映る闇は黒々としてつややかで、その水面の真っ暗さのために、闇の正体が液体にも穴にも感じられないときがある。物体性を伴わない形容詞としての闇がある。街灯の乏しい街外れの夜道を、水溜まりを通じて闇の中に足を突っ込まないようにしながら、ぬかるみを避けて注意深く行き、目的地に着いて、玄関の前でイヤホンを耳から抜いた。髪や、肩が湿り、道中、急にどこからか現れた「仕方ないのだ」というフレーズで頭がいっぱいになっていた。でもそう思うこともすぐに忘れるんだろう。そう思うと、ますます仕方のない思いが強くなった。
 ベルを鳴らさずに、鍵のかかっていないミナト家の玄関扉を開けたそのとき、かつてたった一度だけほとんど初対面だったときレイが吠えたことを思い出した。僕は怯えて、エーコは強がった。レイが眠っていた応接間の肘掛け椅子に、黒い衣装の荻原が深く腰掛けて、青い文様のティーカップから温かいお茶を口にしていた。僕はどこかで惨劇を覚悟していたのだ。具体性もなく、悲劇が起こったと思い込んでいた。

「……ごめん、なんか、落ち着いちゃった」

 返事は少しかすれた声だった。僕は向かいに座った。

「なんか飲む?」
「それは」
「カモミールティー。でも、あんまり好きじゃないかも。紅茶の方が飲みやすいよ」
「淹れようか」
「あたしは大丈夫」

 もしかして惨劇を望んでたのかもなとも思った。駆けつけた先の世界がもっと傷ついている様を想像していた。僕がここに来た“甲斐”があるように願ってたんだろう。幸福に越したことはないのに。
 突風が吹き、雨粒が窓ガラスを叩きつける。誰も雨戸を閉めようとしなかった。天候を持ち直しかけていたはずの空はいつの間にか土砂降りで、雨の支度はとっくに手遅れな気がする。ここまでの道は泥まみれになって、帰ることはできない。

「どうすんだ」

 荻原はカップを置いた。

「どうもしない」

 僕は「うん」とだけ伝える。どうすることもなく、仕方のないことだった。「うん」

「疲れたんだよホズミん。大丈夫だって思ってたし、大好きな衣装がクローゼットにあるのに、駄目だったの。でもそれもやっぱり情けなくて、頼ることができなくて、結局自浄ができちゃってる。時間かかるけど」

「でも、時間かかるんだろ」

 口にした途端に両目から涙があふれて流れた。涙は急に眼球上に満ち、とても自然に零れて頬を伝った。透明で水のような鼻水が垂れた。
 涙を流した姿を友達に見せられるほどオレは素直じゃなかった。格好がつくようにとっさに手のひらで濡れた顔を覆った。喉の奥からこみ上げる悲しみが声にならないように黙り込んだ。声を上げたらその悲しみが本当のことになってしまう気がした。オレは悲しいということを気のせいにして、判断を留保していれば、何もかも見間違いだったことになって誰も傷つかないんじゃないかと願って堪えていた。
 いくら嗚咽を耐えたところで涙は本物のままだった。
 そしてこれはオレだけの涙じゃないんだと悟った。

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