流浪のクッキー職人
 夕暮れの暗い部屋で机に向かって考え事をしていた。これがはじめてではない。最寄り駅の自転車置き場から、家とは逆方向に自転車を走らせた先にある、川沿いの一軒家。その日はミナトさんしかいなかった。
 いつでも来ていいということになっていたし、特に混乱したり冷静さを欠いていると自覚した時に避難所としてここに来る。小家出と言ったところだ。僕らはいつでも来ていつでも帰っていい。彼は秘密の先生であり第三の祖父だった。僕はミナトさんの家で紅茶の味を覚えた。
 家と学校とバイト先で縁取られた生活のデルタはとても狭い。人に会いたくない時もある。家族に対してもまともに会話ができない気分の時もあって、このまま帰宅したら状況が悪化すると気付いたらすぐこちらに来るように決めていた。僕の持っている関係の網目から最も遠くて、かつ僕がいてもいい所。荻原もいていい所。でも今日荻原はいない。ここに来ていないということは、今日は家を出ていないのかも知れない。

 悩ましい事態が起きていた。誰にも相談できそうにないので、僕はひとり頭を抱えている。
 三つの出来事が平行しており、それらが織り成す全貌を察しているのは僕だけなのである。

 まず、今日、荻原が学校を休んだ。そこでHRの配布物を僕が荻原に渡すようにと頼まれた。僕と荻原は仲が良いことになっていて(実際軽口を叩き合う仲なのは皆知ってのことである)荻原のご近所さんは僕だけだった。断る理由もないので僕は承諾した。ついでに暇なら愚痴でも聞いてやろうと、昼頃まではそう思っていた。
 それから、放課後のこと。僕は用もなく理科室や図書室や美術室を覗くのが好きだった。第二理科室にはアカハライモリがいて図書室は暇をつぶすことができて、美術室は美術部員が自主制作の油絵やイラストを描きに集まっていた。何となく気の合う奴が多いので、僕は部員でもないが時々様子を見に行った。荻原のほうが足しげく通っていて、妙にイラストが上手いらしいが、僕に見せたことは一度もない。
 美術室には荻原と親しい長谷川という他クラスの部員がいて、今日、その長谷川さんに話しかけられた。荻原に影響された彼女は僕のことを茶化してホズミんと呼ぶ。「ホズミん、ちょっといいかな」と小声で僕を呼び付けて、「荻原さん最近なんかあった?」と切りだされた。僕はここ最近味わった諸々を経て、いかにもややこしそうな相談事は肌で感じられるようになった。長谷川さんの声の潜め方はとてもシリアスそうで、事実その通りに話は組み込まれていった。「今日は休んでた」と僕も小声で答える。「そうなんだ」と長谷川さんは悲しげに言う。
「あの、ホズミん、えっと、他の人には秘密にしてね。荻原さんには私から聞いたって言ってもいいけど、もし荻原さんが詳しいこと自分で言わなかったら、ホズミんも黙っててね。私もホズミんにしか言わないから。それから、変なこと訊くけどあんまり気にしないで。私が気にしすぎてるだけだし、ホズミんを疑ってる訳じゃないの」
 ちょっと早口の小声で長谷川さんは注意深く語る。イーゼルにかかった長谷川さんの絵に僕は視点を落とす。どこかの屋上でセーラー服の女の子が夕日を見ている絵だった。紫色とオレンジ色を塗り重ねて、ぬるぬるとした質感の不思議な色をしている。
「私にしか相談してないんだって」と長谷川さんは続ける。「昨日の夜聞いたの。学校じゃ話さなかった。夜遅くに連絡があって、それではじめて知ったんだけど」
「それで」
「ホズミんは、荻原さんとつき合ってるの?」
「──ん?」
 急速にハテナマークで埋め尽くされる僕の脳内イメージに「違う、ちがうの」と長谷川さんが訂正を入れる。「いまのは、私が訊きたかっただけで、荻原さんのそのことじゃないから」
 端からはそう見えることもあるという事実に、僕も気分が塞がる思いがした。
 長谷川さんのスカートに絵の具汚れがついていることに気付いた。薄ピンク色だった。この絵の中の雲の部分をこの色で塗ったのかも知れない。
「昨日の夜」と長谷川さんが切り出す。「告白されたって相談を受けて。誰にとは言ってなかったけど、すごく混乱してて怖くて学校に行きたくないって言ってた。男の人苦手みたいだからすごくつらかったみたいで。誰にも言えなくて私にだけ教えてくれたみたいだし。私はそれが──ごめんね──ホズミんなんじゃないかって」
「いや、違うよ。……オレはそういうことしないよ」
 男性恐怖症? じゃああいつの趣味は、青木先生やミナトさんは一体どうなるんだ。
「荻原さん、大丈夫だよね?」
 自分のことのように不安げにしている長谷川さんに「そんな、心配すんなよ」とその時は言った。「あいつ根は冷静だからそんなことで慌てないよ。昨日はたまたま、気持ちが立て込んでて、滅入っただけだろ。そんなもんじゃん。気持ちが忙しい時に限って、別の方向から不幸が重なるの」
「そうかなあ」と長谷川さん。
「とにかく、そんな心配することじゃないって」
 適当に話をつけて僕は美術室を出る。そうして学校を出て、駅まで辿り着いた頃、僕は別の一件を思い出した。他愛無いことだとは思うのだが、昼休み、他クラスの相島という奴が訪ねてきた。相島は僕と一緒に弁当を食っていた野呂と親しく、僕と相島は野呂を介して数度会話した仲である。色黒で明るく騒がしく、きっとこういう顔立ちと性格の奴はこの世にいっぱいいるのに、自分はこの誰とも気心が知れないのだろうと、見かける度に考える。
 相島は扉の傍の席でトランプに興じる女子に話しかけた。「荻原さんって、いる?」それが聞こえた。今日は休んでいると女子たちは答えた。僕は席を立ちながら、「何か伝言あるなら伝えとこうか」と声を掛けたが、「いや、ああ、大丈夫」と僕を一瞥して帰って行った。落し物でも拾ったのだろうかと、その時は気に留めなかった。
 電車に揺られて思索しているうちに、以上の断片がすべて繋がってしまった僕は、自転車をぶっ飛ばして川辺の一軒家に向かっていた。

「荻原いる?」

 息切れした僕が開口一番に尋ねると、ミナトさんは「いや」と言い、「今日は誰も来ていない」と語った。息も荒く汗をかいた僕のことをミナトさんは何も訊かない。「休んでいい?」と言って居間に上がった。セイロンティーを飲んで、やっと落ち着いている。ひとまずはと荻原にメッセージを送った。
『プリントは預かっている 今ミナトさんちにいる』
 送ってから、脅迫状めいていると思った。

 気まずさゆえの不登校なのか、本当に傷ついて寝込んでいるのか、たまたま風邪でも引いたのか、別の事情か、僕には分からない。相島が荻原に、だとして、相島から荻原へも、荻原から相島へも、接点が想像つかない。荻原が長谷川さんに漏らすのは分かる。でも長谷川さんが僕に相談したのはなぜか? 僕がたまたま通りかかったからだ。理由などなかった。僕はいつもたまたまそこにいるだけだった。そこにいるだけで何かが降りかかってくる。言ってしまえば間の悪い人間だった。

 ミナトさんがお茶請けにクッキーを出してくれた。人型や、犬や馬のような四つ足の動物、家らしき形、クマの頭部、いろいろな形にくり抜かれている。手作り菓子に独特の素朴な味がした。甘さ控えめでザクザクしてなかなか悪くないが、ミナトさんの自作とはというてい思えない。「これどうしたの」と訊くと「貰った」の一言で、ミナトさんは席を立ってしまった。少しして戻ってきたミナトさんは包装済みのクッキーをまるまる一袋抱えている。
「映呼にも渡したんだがな」
「本当それどうしたんだよ」
 卸売業者かと言いたい位の量である。
「荻原今日学校来なかったんだよ」
 何故という目でサングラスの向こうから見られ、口を滑らせたことに気付いた。
「……いや、なんか、でもその件は言うなって口止めされてて」……「ガキのしょうもないいざこざだよ。その、わざわざ言うことじゃないんだ」
 とはいえ、微妙な沈黙が流れてしまう。

「これ美味いか」ミナトさんは不意に話題を目の前のクッキーに戻した。
「いや、不味くはないよ。でもどうしたん、買ったの? 安売りでもしてた?」
「ホズミ。お前にも、この話を語る時が来たようだ」
 と、何やら大仰な台詞とともに、ミナトさんはサングラスを外して指紋を拭いた。電球色の仄暗い室内光がサングラスに反射する。目を伏せる初老の男。グレーのジャケット、前時代風の応接間。下手なドラマのセットみたいだった。

「あるところに流浪のクッキー職人がいた」
「はあ」
「まあ、無頼漢だ。一個の実存。菓子作りが趣味だった」
 出し抜けに硬いものを食わされて僕は黙り込む。咀嚼に時間が掛かる。ミナトさんは相手の顎の弱さを知っていて、干し肉みたいな言葉を不意に投げかける。
 きっと、それは、神話の一環だったのだ。本当にあった伝えにくい現実を何とか伝達するために、別の物語を仕立てあげる試み。神話は素直に飲み込まなくてはならない。そういう次元の現実なのだ。桃から子供なんて本当は生まれないけれど、そういう言い回しを取らなければならない事態が、ある時期にきっと訪れる。桃に秘めた暗喩のことは後で知ればいい。今は黙って耳を傾けなければならない。
 僕と荻原はレイに寄り添ってミナトさんのお話を聞いた。レイは僕らと同い年の大型犬で、仔犬の時は焦茶色だったのに、老いてからは白髪みたいに白く透き通った毛並みになってしまった。目はりりしいけれど年をとっておとなしく、昔は外で飼っていたが、最後の数年は室内で過ごした。その頃の荻原はまるで趣味でもない水色の星柄の洋服を着ていた。僕は犬が苦手だったが、レイはおとなしく賢かった。
 今思えば、おとぎ話のような説話や寓話をミナトさんは数多く語ってくれた。半分即興半分大真面目のお話を僕らは正直に真面目に聞いていた。語りの言葉遣いを思い出す。ミナトさんの低く問いかける声はいつでも耳に心地よかった。
「寒い雨降りの日に拾った。橋の下で震えていたレイに似ていた。持って帰ったら奴はここの台所でクッキーを焼きはじめた」
「これ?」
「時々クッキーを焼く。他のこともする。靴屋の小人を知っているな」
 あの童話も何かの比喩だったのか?
「それって、ヒトなんですか。何か、重ねようとしているんですか」
 あるいは、本当に、そういうことも?
 ミナトさんはいつでも泰然として語る。
「早まった深読みに走るのは悪い兆候だ、夏生。幻想でも妄想でもなく何のメタファーでもないある種の極限状況を、お前なら察せられる筈だ。『そうとしか言えない』ものがある。お前の読んだ怪人たちが常に偽物でも本物でもないように」
「分かってます」と僕は言う。
「生来の実在と仮想の幽霊の中空」そう言ってミナト氏は少し言葉に詰まる。「中間に在る」空に向かって舌の上で推敲する。僕はクッキーをつまんでいる。
「ホズミ。行く宛のないそいつは橋の下で震えていた。川辺で身を縮め生命をすり減らしていた。雨が降っていた。川の水嵩が増す前に、憔悴したそれを連れ帰った。一夜明け、そいつはどこかへ消えた。そいつはたまに戻ってきて焼き菓子を置いて帰る」
 それが、居た?
「鳥の巣みたいな家になったな。集い、種を落としていく。常に通り過ぎる。風が吹き抜けるように、流れなくてはならない。それで良いんだ。ホズミ。お前もここに集まり、いつか発ち去るんだろう」
 時間を掛けて丁寧に拭いたサングラスを、ミナト氏はテーブルの上に置き、クッキーを二三つまんで茶を飲んだ。
「それで、これがそのクッキー?」
「彼奴はわざと作り過ぎる。面白がってやっている」
「はた迷惑な」
「食ったじゃないか」
「まあ正直言って美味しいですよ。市販品の規格的な甘さがないっていうか、素朴な。好きだよ」
「これだけの量だ。持って帰ってくれ」
「まあ、いいよ。あれ? 荻原には渡したんですよね」
「ああ」
「いつ?」
「一昨日」
「期限大丈夫なんですか」
「もう食っただろう」
 急に湿気っているような気がしはじめた。そう思えばそう感じる味だった。
「で、そのクッキー職人は」
「ここにはいない」
 そんなことは知っている。こんなところで準備もなくUMAとご対面したくない。UMAと呼べるのか怪しいが、未確認で謎だからいいんじゃないかと思う。
 流浪のクッキー職人。訳が分からん。
 何もかも訳が分からない。

「あのさあ」クッキーを頬張りながら僕は問いかける。なんだかんだ手が止まらなかった。
「なんというか、やること、今引き受けていることって、ひとつにしぼった方がいいんですかね? オレ、なんでかいつも引き当てちゃうっぽいんですよ。ババを。色んな人と色んな場所でババ抜きを掛け持ちしてて、どれがどのデッキのジョーカーだったか、混ぜこぜになってるんです」
「翻弄されればいい。噛み付いてもいいだろう。歯向かえなければ逃げればいい」
「そりゃそうなんですけど、オレは、なんというか、逃げづらいんです」
「お前にも人が集うんだな」
 ミナトさんはそう言った。しみじみという感じがした。
「お前は若い。羨ましくもなる程だ。何を悩むことがある? ありもしない閉塞感に苛まれて辛抱を続けるのか? 逸脱を知っているだろう、お前は。いずれ闘う時が来るということもお前は察している筈だ。もっと堂々と闘って良い。何をしても良いんだ」
「それは、そうですよ、けど」

 物を多く持ちすぎたのだ。それは僕がというよりも、僕らが、この世代が、皆が。
 互いに支えあった結果がんじがらめに陥っているように思う。どこをとってもこんがらがって複雑で、互いに足を引っ張り合い、そんな中で僕ひとりが抜け出したとしても、僕だけが露頭に迷って倒れてしまうのだろう。誰も助けてくれない。善意に欠けているのではないく、状況の維持で精一杯だから。手を差し伸べる暇さえない。闘う暇もない。状況はすぐには変わらない。

「いやだなあ」

 自然とため息がもれた。クッキーは美味い。紅茶も美味い。
 ミナトさんだってすぐに今のミナトさんのあり方に辿り着いた訳ではないだろうに、僕には成長を強いるのだ。でも、強いられでもしない限り、僕は成長出来ないのだと思う。
 どうやったら逃げ出せるんですかなんて尋ねるのは元も子もない。それに期待した答えなんてこの場では絶対に得られない。
 人型のクッキーをつまんで眺める。きっと仲間がいたら、この網目を抜け出せるに違いない。例えばこの家のように。あるいは誰かを探して。
「もう、帰りたくないっすよ、ミナトさん」
「だろうな」とミナトさんは一言。
 それにクッキーだけじゃ夕飯を食った気がしない。何か食って帰りたい。そう言うとミナトさんは戸棚から大量のそうめんを取り出した。
「肉食いたいよ」と希望を漏らす。それかラーメン。
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