子供たち
 昼の日差しを遮った薄暗いリビングで、古いティーセットで紅茶を淹れる。市の外れの古びた一軒家で今し方掃除と庭の剪定を終え、壊れた物干し竿も直した。家主に紅茶とちょっとした茶菓子をやって今日の仕事はおしまい。クッキーを焼いた。もっぱらおれが食うのだが。
 この家の主は目を患い、時折発作的に盲目になる。伴侶はいない。最近急激に盲目の時間が増えたが、それまではやっていけたという。
 盲人であって盲人でないこの男の勘は鋭かった。ふらついていたおれを見出し、手伝いの仕事に就かせた。といっても口約束でシフトを決め、気が向いた時に出向けばよかった。それで、ちょっとした貯金を得た。居心地も悪くない。目の見えない人間と目に見えない人間の取り合わせは都合がよかった。クッキーうまい。ミナトは紅茶ばかり飲んでいる。

「今日の夜は出掛ける」
「そうか」
「デートだよ。映画見に行くんだぜ、一人じゃなく」
「映画立ち見が楽しみとか言っていなかったか」
「それぐらいしたっていいだろ。他の所で随分不利を味わっている」
「いつも思うが、透明人間に利点はあるのか」
「ない」断言出来る。「生きるだけなら堂々と生きていく方がマシだ」

 人型にくりぬいたクッキーの頭をへし折りながら食べる。腕と足を順番に折って最後に体幹を食べる。バターを多めに入れたからとてもおいしい。

「お前らが思ってるのときっと違うよ。暴力も遊びもすぐ飽きる。かといって対等な付き合いも出来ない。だいたいこんなの寂しいもんだよ。明日死ぬかも知れないし、死んでも気付いてもらえないし」
 ミナトは嫌な嗤い方をする。「お前の方が先に死ぬのか?」
「あんたタフだろ。何だかんだ生き永らえてあと五十年ぐらい生きてんじゃねえの?」
「“お前が思ってるのときっと違うさ”」
「死ぬのかよ」
「まだ死ねない」サングラスで視線は伺えない。今見えているのかも定かではない。
「やり残しがある。子供たちを育てねばならない」
「隠し子?」
「アホか」
 うるせえよ。
「お前、見たことなかったか」

 記憶を辿る。すぐに思い出す。鉢合わせしたからミナトが子供らを二階に上げてその隙に家を抜けだした。

「あいつらか」
「弟子みたいなものだ。随分前から出入りしている。頼んだ訳でも頼まれた訳でもないが半端にあいつらを放り出す訳にはいかない」
「それ、いくつよ」
「もうすぐ十七になる位か。十の時に来た。男と女。子供たちと呼べる歳でもないが」
「よくやるよ」この男は隠遁生活の割に人間好きなのではないかと思う。「猫拾うぐらいのノリで人を拾うよな」
「昔は犬を飼っていた」
「あ、そう」
「もう死んだ。大きな犬だった。庭の裏に眠っている。あの子らが葬ってくれた」
「いい子たちだな」
「だからこそ育て上げなくてはならない。ひとりで生きるだけの気概をあいつらに叩き込むのが最期の仕事だ」

 紅茶がぬるくなる。

「考え込みすぎだろ。案外その歳の子供は賢いよ。おれらが思っているよりもあの歳の子は思慮深い。あんたの知識はあくまで保険だ。無くったってどうにでもなる」
「あの子たちは行き詰っている」
「あんたもおれも行き詰っている」
「これが最期の仕事なんだ」

 悲観では無く毅然とした声音で語る。

「子供たちを頼む」

 それはおれの仕事ではない。

「嫌だと言ったらどうすんの?」

 脅しに応じるような相手ではないが、嫌味の一つは言わせて欲しい。

「簡単には引き受けられない。おれは人を任せられる程の良い人間でもないし、あんたらとの方針も違う。きれいな手段は使わないし自分のことで手一杯だ。あんたの弟子とやらには付き合えない。子供たちに歪んで真っ暗で呪われた嘘つきの路上生活者の道を歩ませたいなら別だけど?」
「お前の歪みも嫌味も承知して頼んでいると、お前も承知している筈だ」
「分かってるさ。だからこんな奴に任せちゃいけない」

 この男が本気であることは分かっている。この男は最期の仕事を見据えている。だからこそおれが継ぐ仕事ではない。おれだってあの二人に何かを為し遂げることは出来ない。おれがやれることはない。でもあの子は知りたがっていた。おれも伝えるという立場に立とうとしていた。その演説台はとてももろくて危なっかしい。

「……おれの話していい?」

 家主は答えない。

「おれも二人抱えている。ハタチ過ぎの男と十六七くらいの女の子。何だかんだあって男の家に女の子と一緒に居着いている。おれは住まわしてもらう代わりにあいつらに飯を作っている。
 あんたの感じる義務感に近いものはおれにも分かる。だからこそ安請合いは出来ない。それに決めるのは子供たちだ。こんな、実体の無い人間を信じるのか。だからお前が生きてるうちはお前が全部叩き込む。おれのところに来るかどうかはそいつらに決めさせろ」

 今や紅茶は渋いアイスティーで、ミナトは例のサングラスを外した。虹彩は不自然に灰褐色に染まり、両の眼は充血している。

「俺は俺の目と生き続けてきた。目は俺を穏やかに蝕んだ。暗闇は確実に広がっている。しかし俺の目を蝕む暗闇は、結局この歳まで俺を生かした。この視野が俺の生の目盛だった。この目が完全に眩むとき俺は死ぬ。これが自分で定めた死期だ」

 仄暗いリビングでもその目は老いに反して鉱石のように複雑に光を反射する。その目は日々色褪せて視野の光も奪われる。奪うものが無くなったとき人は尽きる。おれはいずれ消える。

「お前ともっと早く出会っていたら」ミナトは手元を見ずにレンズを磨く。「お前を小説に書いた」
「勘弁してくれ。……もう書かれてる」
「人間がいる限り人間を書ききることはない」
「小説家なんて――」口をつぐむ。……似たようなものだ。「なんでもない」

 丁度そのときオーブンが鳴った。まだ焼いてたのかとミナトが顔を曇らせる。「作り過ぎた。持ち帰れない。あんたの夕飯これにしてくれ」絶句する様が面白い。「何なら、それこそあの子たちに持たせればいい。日持ちすんだろ? 軽い軽い挨拶がてらに」
 キッチンに向かおうと席を立つと、今度はドアベルが高らかに鳴った。「ミナトさーん?」と少女の声。絶句するおれをミナトが楽しんでいる。あのさあ、ねえ、早えよ、ちょっと。
「裏口から出るか?」とミナトが提案する。丁度キッチンに勝手口がある。
「そうする」荷物はない。靴だけ玄関から手早く回収する。「じゃ、あの子たちに宜しく」……「あとティーカップごまかしといて」
 ミナトは誰のためにも席を立たない。ただぽつりと、偶然にもおれを見つめて、
「丸くなったな、ザムザ」と、おれに聞かれていないみたいに呟いた。

 ミナトが外の少女を呼び、玄関戸が開くと同時に、勝手口から家を出る。雑草だらけの荒れた庭で獣道らしき所を突っ切る。そういえば犬の墓はどこにあるのだろうか。花の無い庭をぐるりと見渡す。思い切って土手を上り、午後の川辺の風景を眺める。草をかき分けて岸辺まで下りる。川は空を反射して青く、生ぬるい湿気の臭いが立ち込める。足元には大小の石。角が取れて丸くなったその後は風化するだけではないか?
 川は東に向かって流れる。ぼろぼろの靴底を通じて石や草の感触を知る。臭いや湿度や風景の色。巻きあがる風に揺れる前髪や上着や疲れ。水面に石を投げてみたら一度も跳ねなかったので、駄目だなと思って踵を返した。
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