no room
 空き部屋があるんです。

 ぽつりと帆来が切り出したのは、だいぶ夜も更けた頃だった。セレスタが疑問符を投げかけると、家主は書斎の隣の扉を指した。一度も入った事は無く、帆来くんでさえ立ち入った所を見たことがない。彼は立ち上がり、ドアを開け放ち、おれたちを招いた。
 まあまあの広さの洋間にベッドが二つ。間にランプ。クローゼット。広い窓。ダークブラウンのフローリングに、白いラグ。アイボリー色の壁に掛けられた小さな絵画。整えられた調度品。これだけ見ると洗練されたホテルの一室のようだった。
 しかしベッドにはマットレスしかない。窓のカーテンは開かれたままだった。何者にも触られず、室内のすべてがうっすらと埃を纏って古ぼけていた。生活の痕跡だけを遺して人間は消えてしまった。そんな印象を受けた。
 ベッドのスプリングも触ってみるとしっかりと弾力のある良品だった。贅沢だ、と思ったのは、長らくの路上生活に慣れきったせいだろうか。自分にはソファでさえ非常に快適だった。

「ここを掃除して貴方達に、と思ったんです」

 帆来くんは箪笥の埃を指でなぞった。
 先日感じた妙な予感を思い出した。

「誰が、使っていた?」
「……僕の父と母です」

 神妙な沈黙が辺りを包んだ。セレスタが男を見上げる。何があったの、と。
 整然としながら古ぼけた室内、に立つモノトーン姿の男、は、何か映画のワンシーンのように場に映えている。永久の聴衆となったおれはそれを見ている。彼はただ淡々と語った。

「二人とも母の実家に居るんです。母が倒れて、向こうで療養していて、父はその看護をしています」
「……病状は?」
「決して悪い訳ではありません。環境による病なので、ここよりも静かな場所で治療を受けるべきだった、それだけです」

 セレスタが何かを書き始めるのを帆来は待った。どう言うべきか悩んでいるようで、彼女は幾度も書いては消しを繰り返した。しかし結局首を振り、『つづきを聞かせて』と手を差し伸べた。
 男はマットレスに腰かけておれたちにも席を勧めた。
 どこを見るでもなく目を伏せている。癖らしく、他人と目を合わせて話す姿は少ない(もっとも、おれかセレスタと話す所くらいしか見たことはなく、セレスタは文面での会話だし、おれに至っては相手に見えない)。見上げる動作より見下ろすことの方が多い。

「僕は家に残りました。高校の時で、大学進学を控えていたからここに居た方が都合がよかった。
 それに借家ではなくて購入した家なんです。父が買って、僕が生まれた時からここに暮らしていました。
 愚かなことだとは分かっています、ですが、離れられなかったんです。馬鹿みたいにずっとここに住んでいます。この部屋もそのままにして。僕だけ残って。
 僕は馬鹿です」

 消えいるようにでもなく、ただ事実を述べようと、淡々と発音がこぼれ落ちた。
 言語っていうのは空気よりも重くて、言ったそばから足下に溜まっていくんだと思う。上に向かって投げたことばは弧を描いて遠くまで飛んでいく。下に落とせば雨のように降りつもる。おれの空想。昔はみんな空に向かってことばを投げていた。
 吐き出されたことばは寝室の底に埃のように薄いヴェールを張っている。見えないけれど。それを指でなぞった。

「別に、馬鹿じゃねえだろ」

 なぐさめている訳ではない。

「普通だよ」

 おまけに説得力も無い。おれが普通を語るなんてそっちの方が馬鹿馬鹿しい。
 相手は眉一つ動かさない。笑いもせず泣きもしない。思い悩みすぎて表情まで手が負えない、なんて言いそうな顔だった。
 そんな顔のまま、伏せていた目をしずかに上げた。
 発言はなかった。また新しい思考と新しいことばを巡らせているようだった。
 迷っていたセレスタが、新しい紙を差し出した。

『お留守番でしょ
 私もお留守番です』

 男は声には出さず頷いた。

『ひとりでいたの淋しかったから、
 一緒でよかったです』

「……ありがとうございます」

 礼をしたところで後ろから押さえつけてやった。多少、癪に障ったらしく、無言でおれを振り払った。本当はその後掴みかかってぶん殴るぐらいは出来なきゃいけないと思う。あくまで、おれの意見。セレスタがちょっと笑った。

「で、ご家族の部屋を使っちゃって、いいのか?」

 今度はより確かな目で頷いた。

「本当はもう使わないって分かってるんです。父母がここに帰ってくることはきっとありません。分かってるんです。だったら、もっと実質的に使おうと思いました」
「実質的?」
「今居る人の為に」

 優しいと、困る。

「……いいの?」
「貴方達さえ良ければ」
「住み着くぜ?」
「僕は構いません」
「一生おまえの背後にまとわりついて、搾取できるものは全部取るし、居着くし、好き放題するし」
「その分働いて貰えるのなら」

 互いに全く冗談を含んでいない。
 優しくされるのが怖かった。自分が普通じゃないことを忘れそうになる。おれは路上で朽ち果てるべきだった。あの時に。
 見えないとは分かっていても頷いた。

「正直ソファで本当に十分なんだけどさ」
「自由にして下さい」
「おまえはそれでいいのか?」
「それでいいと思っています」

 造作なく言ってしまう。そういうのは悲しい。
 悲しい? 甘えているのは自分の癖に。

「おまえ、もっと自分のこと、大事にしろよ」

 口を付いて出たのはなんて力無い台詞。

「……貴方こそ」

 ……見破られてるし。
 しょうがない笑いが零れてくる。バレないように笑う。でも何故かバレている気がする。そしてバレることが普通なのだと思い出す。

「風呂入ってくる」と立ち上がった。
「僕達も行きますか」と帆来くんとセレスタ。
「どこに?」
「公開入浴」
「……止めろよな?」
「する訳ないじゃないですか、気持ち悪い」
『気持ち悪い』
「あ、なんか逆に傷ついた」

 こうして今日も甘えて過ごす。
 もう誰かにすがらなくては生きていけないって知っている。自分ひとりで生きていけない自分はもう生き物じゃないのかもしれない。
 でもいつか恩を返せたらいいなと、全くの夢想だけど考えている。
 だからとりあえず生きることを決めた。今はまだこのまま。
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