voice - c
電話口だと、貴方はとても自然です。なんて言われた為に、彼はなんとも言えない気分になっていた。根本的な解決には繋がらないが、見えないことが支障なのだから、初めから声だけとして在るなら違和感は何も無い。
「確かにねえ」と、見えない男は反芻した。
「なにも問題じゃない」
男は少女の携帯を握ったまま、カウチの定位置に腰掛けていた。
では何が問題なのか? 男は思考を巡らせた。彼はわずかに希望を抱いていた。声には問題は無い、と暫定的に結論付けた。
二冊の文庫本を小脇に抱えて少女はリビングに帰ってきた。カウチの隣のダイニングテーブルに腰掛ける。椅子は四つ。明るい木目調。
広い家だった。一人暮らしでは持て余すような、三四人の家族で暮らしよい間取りだ。これだけの広さのお陰で今の日々が成立しているのだが、やはりこの広さは不自然だった。前にも誰かが住んでいたのかもしれない、と勝手に憶測を立てた。
家族が暮らせる3DKがある。そんな物件を買うのは、これから家族になるであろう男女二人。しかし今、ここに暮らしているのは男が一人。
……あれ、それって。
空想がよからぬ方向へ向かってしまった。とりあえず、詳細は訊かないに限る、と、存在するであろう深い事情には目を瞑った。
「携帯、こっち置いとく」
少女は本の表紙から目を上げて、唇だけで『ありがとう』と言った。男も『どういたしまして』と返したが、言ったあとで「そっか、見えないんだった」と自分の身体を思い出した。彼は立ち上がりキッチンへ向かった。
「なにか、飲み物いる?」
グラスを二つ出した。少女はサイレントで短い単語を発する。二文字の連想ゲームをする。
「お茶?」
頷いた。
「麦茶でいいかな」
頷いた。
「氷は?」
頷いた。
だから氷を三ついれた麦茶を二杯。ダイニングテーブルに置いて、男は少女の斜め向かいに座った。声に出さない『ありがとう』を受け取った。二冊の本のうち、少女は『変身』を手に取った。
「読書課題?」
頷いた。
「大変だねぇ」
より深刻に頷いた。冒頭から飽きちゃった、というような顔もちだった。彼女は傍らのノートに彼女の丸文字で書いた。
『読みにくいです』
「まあ、古い本だから」
それをセレスタは否定した。口元にペンを当てて、何を言おうか思考している。少し言いにくそうだった。書きにくいと呼んだ方が適切かもしれない。彼女はふきだしを一つ、『読みにくいです』の前に描いた。
『あなたが思いうかんでしまって』読みにくいです。
そんなことを言われても。ザムザは苦笑を禁じえなかったが、声を殺した笑いだったからセレスタには分からない。
「そればっかりはどうしようもないっていうか」
『虫』? と彼女は首をかしげる。あなたは虫?
「ちがうよ。たぶん、同姓同名。おれはこっち」
彼はもう一冊を宙に浮かせた。『透明人間』。
読んだことないよと彼女は首を振った。
「おれも無いよ」
ぱらぱらとめくってみたページはみな日に焼けて黄変していた。物置と呼ばれた書斎にあるのは老いた本ばかりだった。
少女は活字よりも、透明人間の手で遊ばれる『透明人間』をまじまじと見つめていた。男は視線に気付いて肩をすくめ、
「楽しい?」
『見あきない』
「おれはもう飽きちゃったよ」
彼女は、初対面の時のようにきょとんと透明人間を見た。
『つまらない?』透明な生活は。
「みんなが思うほど面白いものじゃない」
男は本を閉じた。
「羨ましいものでもないし」
セレスタのペンを一本取り、右手でくるりと回旋させた。彼女はそれをよろこんで見た。
『うまい』『とてもきれい』
「そう言われると悪い気はしないけどね」
無言ではあるけど彼女は表情豊かで、彼女が透明人間に飽きないのと同じくらいに、彼にとって喋らぬ少女は飽きない存在だった。
彼は同居人二人を愛した。同時に彼らを案じていた。
他人を心配する余裕が出来た。
傷つけることになるかもしれないからと、なるべくやわらかいことばを努力した。でも切り口の苦さは避けられなかった。
「つらくない?」
唐突にそう問われて、少女は「?」を浮かべる。
「しゃべれないこと」
しゃべらない、かも知れなかった。
少女のペンは黙り込んだ。描かれるのは文字ではなくくるくるに戸惑ういたずら書き。それに目が生えた。虫になった。
「気を悪くしたなら、ごめん。気にしないでくれ」
少女は驚いて、そんなことない、と首を振った。ページのすみに『大丈夫』と走り書いた。
私は大丈夫。
「大丈夫?」
彼女はにっこりほほえみ頷いた。大丈夫なんです。
『私は、』
机に伏せた睫。
『今おはなしできてます たのしいです
テンポがわるいけどぜんぜん大丈夫です。
ありがとう』
ノートを反転させ、ザムザに向けてほほえんだ。
「……そっか。
ならいいんだ。ありがとう」
彼も笑いかけた。
吐息を一つして、男は口を開いた。
「喋らないでいるとさ、結構つらくなった」
彼女はペンを持たずに聞いていた。男はあくまでもらくな口調だった。本当に笑っていたのだ。今となっては。
「こんなだからさ、しばらく誰とも会話しない時があって」
「その時は二ヶ月くらい喋らなかったのかな」
「人に話しかけても、本当に見ないフリされたり、たまに悲鳴あげられたりで」
「誰にも話しかけられないから、街のすみっこの所を人にぶつからないように歩いて、たまにCD屋とか図書館のすみっこにいたりして」
「食事が一番困ったけど、これは聞かない方がいい」
「出来ることがなくてずっと歩いていた。そのうち誰か気付いてくれるって思ってたけど全然駄目だった」
「……って感じで、まったく喋らない生活を何ヶ月か続けてたんだよ」
「で、そうやって話さないままでいるとさ。気が付くと、話せなくなってたんだよね」
「自分の声に対して違和感しか感じなくなって。ことばも思いつかなくなって。喋りたいことが喋れなかった。とっさに物が言えなくなった」
「あと、頭の中で考えてることも、なぜか文章として出てくるんだ。口語じゃなくって、小説みたいな文章で思考してるんだよ」
「どんどん変になっていった」
「やばいなーって思った」
「このままじゃ戻れなくなるな、って」
「だから昔覚えたことばとか、台詞とか、歌とか、ひとりでずーっと口に出すようにした」
「とにかく誰かへ話さなきゃ駄目だって思った」
「街中で、だよ」
「だってほかに場所もないし」
「ついでに気付いて貰えないかな……ってね」
「……で、今ココ」
男は机をかるく叩いた。そして多分笑みを見せた。
最後の軽い口調に少女は安心した。
『大丈夫だった?』
「うん、おれはもう大丈夫」
「だから、まあ、こういう経験があるからね。君が喋らないのが心配だったんだ」
頷いた。
『気をつける』
「出来る限りでね」
そう言って、すっかり氷が溶けてしまった麦茶を飲み干した。
「おれも出来る限り力になるよ」
少女は再び課題図書のページを開いた。男ももう一冊を手に取った。互いに読書に耽りはじめた。部屋はずっと静かだった。